小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1099 被災地陸前高田の街から 満開の桜の花の下で

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東日本大震災によって死者1556人、行方不明217人(2月末の岩手県発表)と、岩手県で最大の被害が出た陸前高田市。高田の一本松の保存問題でも全国的に知られた街だ。最近、この街に住む親類(いとこ)と連絡がとれ、九死に一生を得たことを知った。大震災から2年が過ぎたが、被災者の心は晴れないことをいとこの話を聞いてあらためて思い知った。 いとこは福島県塙町出身で74歳。同町の総合病院に勤務していた石巻市出身の理学療法士と結婚、夫の岩手県立高田病院への転勤で陸前高田に移り住んだ。2人の子どものうち長男は医師、長女は助産師になり、夫が亡くなったあとは独りで市内に住んでいた。3月11日は自宅から離れた所にいたが、地震があった後、急いで車で自宅に戻った。家の前には川が流れており、津波が来るというニュースで山へ逃げ助かった。 「友達のところに行っていたら、どうなっていたか分からない」という彼女は、家族との思い出が深い家は流されてしまい、その後、避難所にいて子どもたちと再会、長女が住む釜石に移った。この年の8月からは、陸前高田市内の仮設住宅で独り暮らしを始め、ことし1月末からは同市内の高台の米崎町和方地区に娘が建てた家で2人で暮らしている。 私はこのいとこには子どものころしか会っていないが、大震災後福島に住む兄から、いとこが陸前高田に住んでいて被災したという連絡を受けた。最近、親類の葬式に出席した姉からこのいとこも岩手からやってきたという話を聞いて、電話をしたのだった。 いとこは、私の電話での質問に答えてくれ、その中で「津波で知り合いを亡くし、津波後はいろんな人と知り合った」と、複雑な胸の内を明かした。陸前高田には多くのボランティアが入り、活動をした。知人の札幌の理容師は震災から1カ月後、カーフェリーを使って被災地に入り、自分の車に寝泊まりしながら陸前高田の街で女性たちの髪のカットをするボランティアをした。彼女は、「陸前高田に向かう途中、車から見た被災地の状況は学校で習った広島・長崎の原爆や戦争の跡と同じではないかと感じた」と話してくれたが、少し前に花巻から車で釜石、大槌、山田、宮古の惨状を見た私も同じ思いを抱き、心が重かった。 あれから2年が過ぎた。だが、胸の中の重苦しい思いは消えない。いとこは、最後にこんなふうにいまの心境を話してくれた。「陸前高田では1000人以上が亡くなり、その中には知り合いがいるんです。もうどうにもならないとは分かっていても…」。いとこは夫と子どもたちに囲まれ、幸せな生活を営み、夫に先立たれた後は友だちに恵まれ、思い出深い家で静かな生活を送っていた。大津波は、そうした大切な思い出や多くのものを奪ってしまったのだ。 週末、寒い中を満開の桜を見た。被災地も間もなく桜の季節になる。俳人黛まどかさんは「満開の桜に明日(あす)を疑はず」という句を震災の年につくっている。先月、黛さんがNHKのラジオ番組に出演し、この句について「津波にあっても花を咲かせた桜の姿に、復興という明日への希望を込めたのです」と話しているのを車の中で聞いた。 私もそんな心境で、建築家の安藤忠雄さんが設計したというさくら広場(千葉県習志野市)を歩いた。人気が少ないこの公園では505本のソメイヨシノが満開だった。
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写真 1、船橋市の海老川の桜 2、安藤忠雄さんが設計したパナソニック・桜広場