小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1030 放浪の旅の本を読む 「悼む人Ⅱ」と「山頭火句集」

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最近、読んだ2冊の本について書く。天童荒太直木賞受賞作「悼む人」の続編「静人日記 悼む人Ⅱ」(文春文庫)と、漂泊の俳人といわれた種田山頭火の「山頭火句集」(ちくま文庫)である。

前者は事故や事件で命を亡くした人を悼むために放浪する若い青年の日記であり、後者は放浪の旅を長く続け、尾崎放哉とともに自由律俳句(季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる)の代表的俳人といわれた山頭火の自由な雰囲気を持つ句と随筆が入っている。

「悼む人」については、小説としてリアリティを感じないという批判もある。その続編の「静人日記」に目を通す。悼む人を読んでいない人には彼の行動(仕事をやめ、見ず知らずの人たちが死んだ場所に行き、その人を悼んだ上、死者のことを胸に刻む)は、理解しにくいだろうと思う。

天童は、こうした批判にこたえるかのように、一人暮らしの女性が静人を諭す話を最後の方の日記に挿入している。

「もうやめなさい。このような旅は、もうつづけることはおよしなさい。あなたの行為はあまりにも重く、人としての分を超えている気がします。このままでは、心もからだももちませんよ。あなただけでなく、あなたに関わる周囲の人々をも、つらくしかねないでしょう」と。だが静人の旅は終わらない。

この本には、天童が東日本大震災の2カ月半後に被災地・岩手県陸前高田市と大船渡市を訪問した感想を記した「可視と不可視のはざまで―悼む人、被災地にて―」という文章が載っている。作家らしい冷静な目で被災地や被災者を表現し、自身への影響について「被災現場を体感して、今後の人生が変わるとは思わない。人間はふてぶてしく、なまなかのことでは変わらない。ただし表現者としては、あの風景を身のうちに入れたのは大きい。作品にいきなり反映することはないが、積み上げてゆく石の方向が変わる感がある。最終的に積み上がった塔の形が大きく変わっていた、ということはあるだろう」と書いている。

悼む人を書き続けるとすれば、天童作品は変化していくのかもしれないという予感がする。

山頭火句集は、彼が残した「「草木塔」などの句集の中から多くの句を紹介し、さらに身辺雑記の短い随筆で構成されている。頁をめくると「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」「ま夜なかひとり飯あたゝめつ涙をこぼす」―など、自由な発想の句が並んでいる。随筆の中では「故郷」という一文が気になった。

山頭火は書いている。「故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味で、憎む人は憎む意味に於て。近代人は故郷を失いつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。彼らの故郷は機械の間かもしれない。あるいはテーブルの上かもしれない。あるいはまた、闘争そのもの、享楽そのものかもしれない。しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは、心の故郷を離れてはならないと思う」と。

前回のブログで伊達市の小学校校長、宍戸仙助さんが、福島の子どもたちに心のふるさとをと訴えたことを書いた。それを思い出しながら、山頭火の文を読んだ。

山頭火の句碑は全国に500基以上もあるそうだ。1500以上といわれる芭蕉の句碑には及ばないが、山頭火の人気は大変なものだと思う。ラーメン店の名前にまで使われているのだから、本人はあの世で苦笑しているのかもしれない。

山頭火に関する以前のブログ

http://hanako61.at.webry.info/201208/article_13.html