小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

904 被災地の新聞の一番長い日 河北新報記者が見た悪夢の光景

画像若い時代に仙台で勤務したことがある。その前には秋田にいた。生まれが福島であり、東北は文字通り私の故郷なのである。だから、東日本大震災で東北各地が痛めつけられ、原発事故で多くの福島の人たちがいまも避難生活を強いられていることが無念でならない。仙台にいた当時、地元の新聞、河北新報を読んでいた。地味で堅実な新聞だった。その河北新報は被災地の人々に頼りにされたと聞いた。「河北新報のいちばん長い日」という本を読んで、その理由が分かった。 この本は、3月11日午後2時46分にM9・0という巨大地震が東日本を襲ってから、休むことなく新聞を発行し続けた河北新報の動きを詳細に書いている。新聞発行のために編集局の記者だけでなく、総務や営業、総局、印刷、輸送、販売店の関係者がどんな思いを抱き、どのような行動をとったのか、大災害に直面した報道機関の姿を追ったドキュメントだ。 この日、河北新報地震によって新聞製作の心臓部である組版システムが壊れてしまった。そのために号外と12日付朝刊は緊急時の相互支援協定を結んでいる新潟日報の協力を得て仙台から新潟に行った整理部員が紙面をつくった。共同通信のネットワークを使い、データを送受信し、仙台市内の印刷センターで大震災の惨状を報じた新聞を印刷したという。本や映画にもなった阪神淡路大震災当時の神戸新聞京都新聞のケースと酷似した動きだった。題名の通り、河北の社員にとって、この日は文字通り「いちばん長い日」になったのだと思う。 本を読んで、3つのエピソードが特に心に残った。 その1―。友好社の中日新聞ヘリに同乗したカメラマンは、石巻市内の小学校の屋上に「SOS」という文字があるのを見つける。周囲は浸水し、屋上で救出を待つ人々がヘリに向かって腕を振り、大声を上げている。だが、ヘリは何もできない。無力感で心が折れそうになりながら写真を撮り続けていると、隣席の中日カメラマンが「ごめんなさいね、ごめんなさいね、ごめんなさいね…」「僕たちは撮ることしかできない。助けてあげられないんだ…」とつぶやくのが聞こえた。 このカメラマンは助けを求める人たちを見ながら何もできないもどかしさに「何やってんだ、俺。最低…」とひたすら自分を呪ったのだという。(追跡取材でこの学校では食料も少なく、避難した600人=のちに1300人まで膨れ上がる=の人たちは救出されるまで砂糖をなめながら飢えをしのいだことなどが判明する) その2―。大きな被害を受けた気仙沼では、総局長が津波に胸まで浸かりながら九死に一生を得た。当然パソコンはなく、彼はペンでコピー用紙の裏面に寒さに震えながら体験記を書いた。「散文調」ともいえる文章は、友好紙にも掲載され、大きな反響を呼ぶ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった。1つの町の区画がそっくり焼け焦げていた。それがかつて何であったのか不明のがれきの山が、車道をふさいでいた。乗用車や保冷車は好き放題に転がり、土砂に埋もれ、川に突っ込んでいた。美しい景色と水産のまち・気仙沼市は、今まで見たことがない、形容しがたい無惨な姿をさらしていた。 その景色を見ることができたのは、むしろ幸運だったのかもしれない。 震災当日の11日、襲い来る津波に胸までつかり、死にかけた。気仙沼総局に避難してきた人たちに食料をとコンビニに走ったのが失敗だった。水は白い波頭を見せ、道沿いにひたひたと迫ってきた。近くのビルの2階ベランダに駆け上がったが、勢いは一向に衰えない。あっという間、5、6メートル流された。フェンスによじ登り、柱にしがみついた。水かさは増す。死を覚悟した。 次の瞬間、濁流はすさまじい音を立て、ビルのシャッターを突き破り、建物の中になだれ込んだ。一気に水位が下がった。驚いて出てきた家の人が3階の自室に招き入れてくれた。ぬれた服を着替え、食事までごちそうになった。人の情の温かさを今更ながら知った。「支え合い」。現実感の乏しい地獄絵図の世界で頼れるのは、そこに確かにいる身近な人だけだ。 12日、市の避難所に出向くと、行方不明者の安否を気遣うメモが壁いっぱいに貼られていた。「待ってて、生きてる!」「これを見たらすぐに来て」。1枚、1枚を見ていると涙がこみ上げる。余震と火災がやまないけれど、悪夢の日ではない、長い復興の道に踏み出した最初の日なのだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その3―。大災害で困窮するのは食料だ。それは報道機関でも例外ではない。河北新報の社内では、総務部フロアに「おにぎり班」が結成され、17日間にわたって社員に炊き出しを続ける。さらに隣接の山形総局も総局上げて炊き出しを担当し、共同通信をはじめとする他の報道機関からも援助物資が届き、新聞発行の影の力になる。おにぎり班は女性社員を中心に8人で編成されたが、一時は米の調達の見通しが立たずに、小さなおにぎりを1個しか渡せない日もあったという。 原発事故で現場取材ができない記者たちの苛立つ心も、胸に迫る。 河北新報は、震災報道で今年の新聞協会賞を受賞した。被災地には河北や岩手日報福島民報福島民友といった新聞協会加盟の新聞以外に地域に根ざしたローカル紙がある。石巻日日(ひび)新聞は、社屋の1階が津波に襲われ、輪転機も海水に浸かった。 記者たちは新聞ロール紙に油性ペンで記事を書き続け、6日間にわたって市内6カ所の壁に張った。外電がこれを紹介し、壁新聞はワシントンのニュース博物館「ニュージアム」に永久保存され、同社はことしの菊池寛賞を受賞した。インターネット全盛の時代とはいえ、河北や石巻日日新聞のような読者を大事にする報道姿勢がある限り、新聞は生き残ることができるのではないかと考えた。