小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

856 原発事故を想起するムンクの「叫び」 北欧じゃがいも紀行・1

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ノルウェーの首都、オスロの中心部にある国立美術館エドヴァルド・ムンクの油絵「叫び」を見た。世の中の不幸を一身に背負ったような、独特なタッチの人物と赤く染まったフィヨルドの夕景が不気味であり、つい福島原発事故で避難を余儀なくされた人たちの姿を連想してしまった。 この絵はいまから118年前の1893年に描かれた。子どものころに母親を亡くし、さらに少年時代には姉もこの世を去ったという悲しい過去を持つムンクは、「愛」と「死」がもたらす「不安」をテーマに「生命のフリーズ」という作品群を残した。その中で「叫び」は最も知られた作品だ。以前、上野の国立西洋美術館ムンク展を見たことがあるが、あまりにも人が多くて、一つ一つの絵をじっくり味わうことはできなかった。(この展覧会には叫びは出展されなかった) その時と比べると、オスロの方はそんなに混雑していないので、足を止めてゆっくりと絵を眺めることができる。ムンクが生きた時代のノルウェーは、スウェーデン支配下から独立へと歩んだ。そのころ日本は明治時代であり、日露戦争でロシアを破っている。 ムンクの日記によれば、叫びは彼自身の体験を作品化したものだ。(以下、この絵に関する日記の抜粋) 《夕暮れ時、私は2人の友人と共に歩いていた。すると、突然空が血のような赤に染まり、私は立ちすくみ、疲れ果ててフェンスに寄りかかった。それは血と炎の舌が青黒いフィヨルドと街に覆い被さるようだった。友は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして、自然を貫く果てしなく、終わることのない叫びを聞いた》 (オスロ国立美術館
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「叫び」に関しては、様々な研究が行われている。その中で赤く染まった空は、1883年5月20日のインドネシア・クラカトア火山の大噴火と関係があるという説もある。この説を発表したのはアメリテキサス州立大学の天体物理学者ドナルド・オルソン教授らの研究チームだ。大噴火により大津波が発生し3万6000人が亡くなったという。この大噴火で細かい粒子が上空に舞い上がり、3年にわたって世界各地で夕焼けの空が異様に赤くなる現象が観測されており、ムンクの住むオスロも例外ではなかった。オルソン教授はムンク美術館でムンクの手書きの文書に「叫びのスケッチは1884年の記憶を元に描いた」とあるの見つけたのだという。 福島の人たちをはじめ、私たちは3月11日の大きな揺れの後、世界の終わりのようなすさまじい光景を自分の目でとらえたり、テレビの映像で見た。それは、大津波がもたらした想像を超えた震えるような自然の脅威である。その結果甚大な被害が出た。原発メルトダウンを起こし、放射性物質が福島を中心に拡散した。それはムンク「叫び」の中の人物と同様、耳をふさぎたくなるような、不条理の出現といっていい。 震災から半年が過ぎても原発問題の解決の見通しは立たず、多くの人々が、「不安」の時を送っている。しかし、悔しくても、悲しくても、苦しくても東北の人たちは大きな叫び声は上げない。ムンク「叫び」が共感を呼ぶのは、いつの時代でもこの世から不安や苦悩といった負の要素が消えないからなのだろうかと思う。絵画の見方は人それぞれである。「叫び」原発事故に苦しみながらも、叫ぶことを抑えて耐え続ける人たちの姿を投影しているようで、私は複雑な思いにとらわれた。 国立美術館は、ゴッホ、モネ、ドガルノワールゴーギャンロダン、ヘンリームーアの作品など多数の作品が展示され、ムンクの作品を展示した部屋をのぞいて写真撮影は原則可能。ムンクの作品が撮影禁止だったのは、5点ある叫びのうちムンク美術館の「叫び」が以前盗難に遭った影響なのだろうか。 (ルノアールの入浴の後)
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スカンジナビア半島にある北欧のデンマークノルウェースウェーデン3カ国を訪れた。ジャガイモが料理の中心であるこの国々で毎日ジャガイモ料理を食べながら、街を歩いた。ブログで旅の模様を何回かに分けて報告する。帰ってきたら、うれしいメールがあった。親しい友人が「冬尋坊」というブログを始めたというのである。リンク先に登録をしたので、読んでいただければ幸いだ。 (ジャガイモに白身の魚のソティー
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