小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

685 夭折した2人の心 琵琶湖周航の歌

画像「ひつじぐさ」(未草)が何であるかを知っている人はそう多くはないと思う。辞書で引くと、睡蓮のことで、スイレン科の水生の多年草で池沼に生えると出ている。そうクロード・モネの絵で有名なあの睡蓮なのだ。 未の刻(午後2時ごろ)に開花するというので、この名前になったという(実際には午前中に咲くらしい)。琵琶湖周航の歌の原曲が、この植物と同名の曲だったということを知ったのは最近のことだ。 7月下旬、琵琶湖に浮かぶ沖島に行くため近江八幡の堀切港から小さな船に乗った。往復でわずか20分足らずの時間であり、琵琶湖周航の歌とはかなり趣が違った船旅だった。 それでも、琵琶湖の湖面を見ていると、ついこの歌が浮かんできた。加藤登紀子によって国民的愛唱歌になったが、旧三高・京大卒業生にはかなり古くから歌われていた学生歌だった。 資料を調べると、作詞者の小口太郎は三高のボート部の学生で、大正六年(1917年)6月28日、琵琶湖でボートの練習中に詩が浮かんだ。この詞をクルー仲間が当時、三高内で歌われていた「ひつじぐさ」という吉田千秋の曲に合わせて歌ってみると、よく合った。それ以降、機会あるごとにこの歌を三高生が歌い、長く歌い継がれるようになったという。 吉田は、歴史・地理学者として著名な故吉田東伍氏の次男で、東京農大に進むが肺結核のため退学、大正8年(1919)年2月24日、新潟の自宅で療養中に24歳の若さで亡くなる。語学が堪能だった吉田は、英国の児童唱歌を訳して「ひつじぐさ」の詞にし、ドイツ語の本で音楽を独学、結核の療養中に曲として完成させたのだという。曲は大正4年(1915年)の音楽雑誌に発表された。 小口と吉田の接点は全くない。吉田は琵琶湖周航の歌が誕生してから1年半後に亡くなっており、自分の曲のメロディーが新しい曲になり、三高生の間で歌われているとは知る術はなかった。 一方、長野県岡谷市出身の小口は三高から東京帝大理学部に進み、在学中に「有線及び無線多重電信電話法」という研究で日本、欧米など8カ国で特許を得たというから、現代のIT技術者の先駆け的存在だった。しかし、吉田の後を追うように、大正13年(1924)5月16日、26歳で亡くなる。 当初、病死とされていたが、死因は自殺だったという。科学者として将来を嘱望された小口がなぜ、自死を選んだのだろうか。自殺の原因については、入営(甲種合格)と研究(卒業後東大航空研究所勤務)の板ばさみ説と結婚を考えた親戚の女性から断られたと思っての傷心説がある。いずれにしても小口は豊かな才能を伸ばす途中で、鬼籍に入ってしまった。 吉田と小口は若くしてこの世を去った。しかし彼らが作った歌は国民的愛唱歌として、いまも歌い継がれている。歌はやはり、何かの力を持っているのだと思う。 新しい歌が次々に誕生する。だが、名曲として残るものは限られている。誕生から90数年。変わらず人々の心を打つ琵琶湖周航の歌は、夭折した2人の心の歌なのである。 678 車のない琵琶湖の有人島 沖島にて 1081 小さな劇にすぎなくとも 琵琶湖近くの「故郷の廃家」の物語 773 琵琶湖一周の旅の途中に 雪に埋まったカタカナの町へ 776 琵琶湖一周の旅の途中に(続)