小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

611 復活した校歌の物語(3) 見つかった山本さんの孫

福島県立図書館所蔵の近代音楽年鑑(昭和17年版)には、山本正夫の住所として東京都板橋区上坂6-50-2とあり、「帝都学園女学校校長」と記されている。

これを頼りに、宍戸さんの調査に協力している矢祭町教育委員会の片野宗和委員長が、山本の孫の晴美さんが区内に住んでいることを探し出したのは、東舘小の卒業式直前のことだった。

片野さんは、宍戸先生の話を聞いて直接茨城県の精華小学校を訪ねるほどの行動派だ。彼は帝都学園が板橋区常盤台にあったことを調べたあと、NTTの電話番号案内に電話し、板橋区常盤台の山本正夫で番号を当たってもらった。その名前はなく、常盤台には登録された「山本姓」が5軒あると知らされ、片野さんはこの全部の番号に電話をしたという。

片野さんが「山本正夫さんの子孫を探している」と話をすると、山本姓の一人で、建築設計士をしている人が興味を示した。町づくりのための図面調査をしているという設計士は「帝都幼稚園というのがあるので当たってみましょう」と早速、園長を訪ねてくれ、園長が山本正夫の直系の孫の山本晴美さんだと判明したのだという。

片野さんからの連絡を受けて、宍戸校長があらためて晴美さんに電話すると、春休みに宍戸さんや片野さんとらと会うことを約束してくれた。晴美さんは「祖父は多くの学校の校歌を作曲しているが、東舘小学校のように作詩までしたことはこれまで聞いたことがない」と語ったそうだ。

あらためて書くが、山本正夫がいつ、どんな事情で東舘小学校の校歌を作詞作曲したのかは分からない。そして、終戦後10数年歌われなくなった理由もはっきりしない。

前回のブログで「終戦後、教育事情は大きく変わり、戦前使っていた教科書のかなりの部分の記述が墨で消されたことは歴史的にも知られている。教育から『軍国主義』を排除しようという目的で自主規制が行われたのだ。そんな状況下、あるいは東舘小学校の先生たちも日本に進駐したGHQに配慮して、戦前から歌っていた『恵もひろき・・・』という校歌の存在を消そうとしたのではないか。そして、応援歌の方だけを歌わせるようにしたのかもしれない。それとも進駐軍によって、何らかの指示があったのだろうか」と書いたが、それを裏付けるような資料が残っていた。

それは「大正14年9月以降の学校沿革誌」(昭和23年6月以降に記述)であり、この中に次のような記述があったことを宍戸先生から知らされたのである。(原文を一部分かりやすく手直しした)

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明治、大正時代における画一的天皇中心主義の教育時代は、学校で編さんする沿革誌の巻頭には御影(御真影天皇の写真)および教育に関する勅語(いわゆる教育勅語)謄本拝載などの記事が載せられたことは致し方がないことであった。この沿革誌の一によると、御影は大正6年10月5日、勅語は明治24年2月5日に下附され、大正14年6月にはいわゆる奉安殿(第2次大戦中まで、各学校で御真影教育勅語などを収めていた建物)なるものを建設、これに遷(うつ)され、式日には丁重にこれを取り扱い、勅語奉読の作法は学校長の苦心とするところであった。

第2次世界大戦で敗戦の結果、これまでの教育が全く誤りであったことを(GHQから)指摘され、勅語と写真はともに昭和20年12月当時の石川地方事務所に移還され、中央において焼却されたものである。奉安殿も破壊撤去され、勅語謄本、申詔書謄本は昭和23年6月28日、東白川地方事務所に集められて措置(処分)されたのである。

日清日露戦争当時の戦利品として学校に残っていたあらゆるものが進駐軍のために没収され、明治維新後における軍国主義教育、帝国主義教育は根底より破壊され、戦後米国流の新教育が実施され、(それまでの)あらゆる教育法令は改廃、更新されたのである。

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この沿革誌から、私は山本が作詞作曲した校歌も「軍国主義」時代のものとして、学校関係者の「配慮」で排除の対象にされたのではないかと推測する。

宍戸先生の調査では、山本が作曲した多くの校歌のうち、(作詞は別人だが)3番の歌詞に「おおきみ」(天皇を指す)という部分があり、その3番は戦後歌われなくなり、さらに新しい校歌を作ったという学校があるという。東舘小の校歌には、「おおきみ」という言葉はないが、終戦時の学校関係者がGHQの方針に「過剰反応」した結果、校歌なしの空白期間が生まれたというのが真相なのだろうか。(続)