小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

609 復活した校歌の物語(2)  戦後になぞの空白期間

東舘小学校は、戦後十数年校歌が歌われない時期があったという。当時の在校生に聞くと、その通りで校歌の代わりに、郡全体の体育祭(南部8校対抗戦)のときに歌う「応援歌」を入学式や卒業式などの行事の際に合唱した記憶があると、口をそろえて言う。

なぜ、このようなことになったのだろう。終戦後、教育事情は大きく変わり、戦前使っていた教科書のかなりの部分の記述が墨で消されたことは歴史的にも知られている。教育から「軍国主義」を排除しようという目的で自主規制が行われたのだ。そんな状況下、あるいは東舘小学校の先生たちも日本に進駐したGHQに配慮して、戦前から歌っていた「恵もひろき・・・」という校歌の存在を消そうとしたのではないか。そして、応援歌の方だけを歌わせるようにしたのかもしれない。それとも進駐軍によって、何らかの指示があったのだろうか。

戦後、十数年を経て着任した長田久雄校長は、小学校に校歌がないことを知り自分が作詞、音楽の教師、泉キエが曲をつけた「朝だ光だ」という曲を校歌とした。この歌はその後20年近く歌われ続ける。昭和49年の創立百周年の行事のときには在校生が「朝だ光だ」を歌い、戦前の卒業生が「恵もひろき」を歌うという珍しい光景が繰り広げだれたのだという。その後、町内から楽譜も見つかり、山本正夫作詞・作曲(川音平二先生の編曲らしい)の「恵もひろき」の方が正式な校歌として歌い継がれることになる。

では作詞・作曲の山本正夫とはどんな人物だったのだろうか。宍戸校長は、休みを利用してインターネットや福島、茨城両県立図書館などを当たり、山本の人となりを調査した。その結果、まず中村雨紅の作品の中に作曲者として山本の名前がいくつも出てくるのを発見する。「お舟の三日月」「こんこん小兎」「早春」「花吹雪」「花の夕暮れ」「坊やのお家」などである。さらに野口雨情の出身校の茨城県北茨城市立精華小学校の作曲者も山本であることが判明した。(作詞は野口雨情ではなく望月綱雅)

茨城県立図書館によると、「精華小学校111年の歩み=1984年発行」には、山本の略歴が次のように記されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明治13年兵庫県出石町(現在の豊岡市)生まれ。東京音楽学校を明治36年に卒業後、島根県師範学校教諭に。以後千葉県師範学校、豊島師範学校教諭を歴任し、この間日本初のオペラ上演に参画。全日本音楽教育会を設立して音楽教育活動の発展に貢献、全国各地の校歌を作曲する。昭和8年に退職、帝都学園高等女学校を設立。教え子に渡辺浦人(クラシックの作曲家で映画、赤胴鈴之助の主題歌も作曲)などの著名人もいる。昭和18年、63歳で永眠。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山本は、戦前の音楽界ではかなり知られた存在だったのだ。渡辺浦人は豊島師範学校を卒業しており、ここで山本に音楽を学んだようだ。さらに、もう一人の山本である山本直忠(山本直純の父)と東京教育交響楽団で出会い、作曲と指揮法を師事、日本の音楽界に大きな足跡を残す存在となる。

東舘小学校の校歌がいつつくられたのかは分からない。山本がどういう経緯で東舘小学校の校歌を作曲したかも不明である。楽譜は大正10年から同校に勤務した教師の兄(元海軍中佐)が持っていたものを、百周年記念行事のあと学校に寄贈された。山本が精華中学校の校歌を作曲したのは昭和6年(1931年)というから、いずれにしろ、大正末期から昭和初期にかけてつくられたといっていいだろう。

宍戸先生が2つの校歌の存在を知ったのは、着任直後の2008年4月だ。学校を訪れた人から「昔は別の校歌があったのですよ」といわれ、疑問に思い調査を始めたのだという。その後、少しずついきさつが分かり、自分で発行する「学校紙」で報告を続けている。

山本の死後、山本家の人たちはどのような戦後を生きたのだろうか。宍戸先生の調査はさらに続き、東京に孫がいたことを突き止める。(続)