小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

543 理解困難な小説 高村薫「太陽を曳く馬」

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難解で手に負えないと思った。 高村薫の「太陽を曳く馬」は、読んでいて疲れてしまう作品だ。この作品の内容を理解して読了することは至難ではないか。高村薫という作家の名前に引き寄せられて、読み始めたものの、読後感は「徒労」であり「理解不能」だった。 ストーリー自体はそう複雑ではない。東京都心の座禅が有名な寺から脱け出した癲癇という病気を持つ修行僧が車にひかれて亡くなる。遺族が弁護士を通じて「病気があるのに、寺を脱け出すことを見逃した」という理由で、この寺の住職らを保護者責任者遺棄致死と業務上過失障害の疑いで告訴する。その捜査に当たるのが高村作品でこれまで何度か登場した警視庁捜査一課の合田雄一郎だ。 この寺には、かつて合田が捜査し、死刑となった事件の男の父親が僧侶をしていた。作品の上巻では父親と殺人犯の息子を中心に話が進み、下巻では事故死した修行僧が元オウム真理教にいたことから、オウムと座禅寺の僧侶らの違い、仏教とは、という宗教論に進んでいく。 特にこの下巻の内容があまりにも難解すぎて投げ出したくなった。作者の高村が何を言いたいの、私には見当もつかない。読んでいて迷路に入り込んでしまうのだ。 村上春樹の「1Q84」も、作者の意図が不明瞭な作品だが、それ以上に太陽を曳く馬は、ミステリーなのか純文学なのか、その範疇を考えることが困るほどだ。高村薫はどうしたのだろうか。それを通した新潮社の編集者の感覚も尋常ではない。 作家は読者に迎合する必要はもちろんない。だが、読者を納得させるだけの意味や思いが伝わってこなければ、その作品は失敗だ。「あなたは宗教のことを知らないから、そう思うのかもしれないが、宗教を理解している人には面白い作品だ」という反論もあるかもしれない。 だが、そうしたことを考えたうえでも、高村薫はどこに行ったのかと思う。以前の「マークスの山」でも「極端」に走る傾向が出ていたが、今回はその傾向がもろに出てしまった。