小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

509 歌の風景 少年時代の風あざみ

秋到来を感じる8月の末日だ。先日、井上陽水を取り上げたテレビ番組を見た。その中で「少年時代」という歌が代表作の一つだと井上自身も語っていた。その詩の中に、実在しない植物が書かれているのを知った。

「風あざみ」だ。この歌は「夏が過ぎ 風あざみ だれの憧れにさまよう 青空に残された 私の心は夏もよう」とある。秋を感じさせる詩の中に登場する架空の植物だ。

辞書で調べると、アザミはキク科アザミ属の多年草で、ノアザミ、フジアザミなど多くの種類があるそうだ。しかし「風あざみ」という種類はもちろんない。詩の中で「風」と「あざみ」の間を開ければ、晩夏の風の中で揺れるアザミの花を連想し、何となく意味は通る。

しかし、井上はそうはしなかった。何となく心に浮かんだ「風あざみ」という言葉を語感がいいと思い使ったのだという。

言葉は難しい。このように美しく、郷愁を感じさせる歌でも、こんな語句が使われている。テレビ番組でロバート・キャンベル東大教授は「風あざみってどんな植物だろうと思っていたが、ないことが分かった」と話していた。

知日家の外国人がこんな疑問を持っていたのに、私はこの歌を口ずさみながら「風あざみ」について、何も考えたことはなかった。鈍感といえば鈍感だ。井上にだまされていたのだ。

夜になって、秋の虫が鳴き始めている。コオロギだろう。「風あざみ」の季節から、天空がどこまでも青い季節になる。そして2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件から間もなく8年。この世界、そして地球はどのような歩みを続けるのかと思う。