小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

505 走ること 人類はどこまで行くのか

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世界陸上でジャマイカウサイン・ボルトが100、200メートルで世界新記録を出して優勝した。特に100の9秒58という数字は、日本人には今後100年経っても、更新できない夢の記録ではないか。ほかの選手と比べて、ゆったりとした雰囲気で走るボルトに、別の世界の生物を見る思いだ。 最近、三浦しをんが書いた「風が強く吹いている」という小説を読んだ。同じ大学の寮に住んだ10人が箱根大学駅伝出場を目指し、それを実現したうえでシード権まで取ってしまうという、夢のような物語だ。冷静に考えてみると、あり得ない話だ。少しだけ、陸上競技をかじったからそう思う。しかし、三浦はそうした先入観を払拭させるだけの筆力で、読者である私を説得する。 高校時代、陸上競技で長距離をやっていたのは3人(うち1人は、走ることをあきらめている)しかいない。残りの7人は、スポーツとは縁がない。それぞれに個性がある学生たちが、チームを組んで箱根駅伝を目指す。結果的に、彼らは目標を達成する。 この作品に対し、「あり得ない」、とNGを出すのは簡単だ。だが、ボルトの走りを見て「まてよ」と思った。人間の潜在能力は計り知れないものがある。三浦の作品に出てくる大学生だって優れた指導者(ハイジ)がいたからこそ力が引き出され、箱根に出ることができたのだ。 ボルトはどのようにして、ここまで成長したのかのだろうか。12歳で陸上を始めたが、身長が高すぎた彼は、当初100メートルはやらずに400メートルの方を走った。身長が高いと100メートルはスタートからの加速が鈍くなってしまうというのが大きな理由だ。しかし、200メートルのスタートを見ると、反応はよく、加速も悪くない。的確な指導者がいて、本人のたゆまない努力で克服したのかもしれない。 日本人は身体面でボルトのような大男をみると劣等感を抱いてしまう。100メートルの現在の第一人者である塚原選手の走りさえ、ボルトと比較したら子どもの走りで、歩幅も狭く、残念なことに「チョコチョコ」と走る印象なのだ。つらいことだが、これは現実だ。 発明王エジソンは「天才は1%のひらめきと99%の汗」という言葉を残した。この言葉は2つの意味に読み取れる。1つは「天才でもひらめきは1%で、残りの99%は努力をしなければ物事は成功しない」という意味。もう一つは「99%努力してもひらめき(1%でも)がなければだめ」ということのようだ。これをどちらに受け止めるか。私は素直に前者だと理解したい。そう考えれば、三浦の小説も素直に読むことができる。走りの素人たちが箱根駅伝に出場してしまうストーリーは、元気を失った日本社会、日本人への「しっかりしろよ」という三浦からのメッセージなのかもしれない。