小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

500 散るぞ悲しき 硫黄島の栗林忠道

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太平洋戦争末期の硫黄島で日本軍と米軍が死闘を繰り広げた。日本側の指揮官は栗林忠道だった。

本土防衛のために死を前提に硫黄島の戦いを指揮した栗林は、玉砕を前に大本営あてに訣別電報を送る。その電文と電報の最後に添えられた時世の句の一部が書き改めて発表されていたことが、この本で明らかにされる。この作品で大宅ノンフィクション賞を受けた梯久美子は、栗林が書いた妻や子どもたちへの41通の手紙を手がかりに、栗林の人間性硫黄島の激闘を記している。

硫黄島の戦いをめぐっては2006年に米国で2本の映画が制作され、話題になった。2つの映画で栗林は、優れた指揮官として描かれている。梯が書いたこの作品を読んで、このような軍人が存在したことに驚きを禁じえない。家族を大事にして、本音で手紙を書き、戦闘では徹底して合理精神を発揮する。

栗林の訣別電報は大本営に対する痛烈な批判であり、愛する家族と永遠に別れる父親の心が率直に表れている。それだけに、大本営はそのまま発表できなかったようだ。

改ざんされた電報はこうだ。「戦局 最後の関頭に直面せり 敵来攻以来 麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり」(中略)「宛然(えんぜん)徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは・・・」とある。

それが「戦局遂に最後の関頭に直面せり 17日夜半を期し 小官自ら陣頭に立ち 皇国の必勝と安泰を祈念しつつ 全員壮烈な総攻撃を刊行す」と、改変された。

電報にあった「宛然徒手空拳を以って」というくだりも削除され、「壮烈な総攻撃を刊行す」となるなど、原文にはない文章がいくつか挿入された。さらに辞世の句の一部まで変えられた。

「国の為重きつとめを果し得て 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」の「悲しき」が「口惜し」に変えられて新聞に発表されたという。

作家の柳田邦男は作品の解説で、大本営が「徒手空拳」を削ったのは、無力感を漂わせた表現、いわば泣き言では国民の士気高揚を阻害すると判断したからに違いないと断じる。

柳田は続ける。「口惜しは、極めて表面的で通俗的な意味だが、悲しきは日本古来の文化の中で意味が多様で深みのある言葉として大事にされたキーワードであり、人間がこの世に生まれて人生を生きていく中では、様々な波乱があり、非情な運命にも遭遇する。人はそういうかなしみを内に秘めて生きている」

栗林の辞世の句から消えた「悲しき」は、1994年(平成6)に初めて硫黄島に行った天皇の歌によって蘇る。

「精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」

戦後60数年の時間が経過して栗林の本音が解明された。この世に生まれてきた以上、幸せな人生をまっとうしたいと思う。だが運命はいたずらだ。いたずらがが過ぎて多くの人たちを不幸へと導いてしまう。栗林の訣別電報は、そんな過酷な運命に出会っても、自分を曲げずにひた向きに生きる人間がいることを教えてくれるのだ。