小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

472 人生の歌 悲運の米国詩人

ヘンリー・ワーズワースロングフェロー(1807-1882)という米国の詩人の「人生のさんび歌」(文春新書、あの頃、あの詩をより。以前は「人生の歌」として知られているようだ)という詩がある。

彼は米国では多くの人に親しまれている国民的詩人だ。その詩の中に「喜び、悲しむ、そんなことのために、人間は生まれてきたものではないのです。働く、そして、きょうはきのうより一歩前進する、これが人生の目的、人間の生き方です」(あの頃、あの詩を、吉田甲太郎訳)というくだりがある。週末のふとした時間に、この一節が頭に浮かんだ。

ロングフェローのように人生を達観はできない。社会の動きや周囲の諸々の出来事に一喜一憂して日々を送っている。最近もこんなことがあった。小さな貸農園で野菜づくりをしていて、ジャガイモの収穫をした。キタアカリという種類だ。まあまあの収穫だと思った。しかし、ジャガイモを収穫すると、わが畑は殺風景になった。ゴーヤ、キュウリ、ナスはあるが、みんな小さく周囲の畑に比べると、貧弱そのものなのだ。ついため息をつく。

原因は分かっている。たまにしか畑に行かず、手入れを怠っているから雑草が多い。肥料も少ない。それが野菜の育ちに影響しているのだ。周囲の畑は雑草がほとんどなく、野菜の育ちも素晴らしい。聞いてみると、ほぼ毎日手入れに来ているという。彼らは私の畑を見て何かを言いたげだが、あきらめたように何も言わない。

ロングフェローは「そんなことで悲しんでならない」というかもしれない。「一歩前進するために、働けばいいじゃないか」と。それができないからため息をつくのだ。

この詩の最後は「だから、さァ、立ちあがろう、そして、仕ごとをつづけましょう、どんな運命にもくじけない勇気をもって。努めてやまず、どこまでも怠ることなく、力を尽くしつつ、じっと待つことを学ぼうではありませんか」とある。まるで、怠惰な私を励ましてくれているようなのだ。

ロングフェローは詩人、言語学者として陽の当たる生涯を送った。しかし、家庭生活では悲運の人だった。最初の妻は22歳の時に流産で亡くなり、6人の子どもを産んだ2番目の妻は、44歳でやけどが原因で亡くなったのだ。ロングフェローは当時54歳。彼は75歳で生涯を閉じるが、2番目の妻を亡くした後は終生立ち直ることができなかったという。

そんな悲運の人がこんな詩を書いているのだから、人生とは皮肉なものだと思う。(ロングフェローの長男チャールズ・アップントン・ロングフェローは明治4年から6年かけて北海道から長崎まで旅をし、富士山も上った。東京にも家を持った親日家だった。(平凡社ロングフェロー日本滞在記)