小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

455 科学捜査は万能か 足利事件で思う裁判員の責任

日本の刑事裁判の有罪率は99・9%だという。検事が起訴すれば、その段階で有罪が決まったようなものだ。だが、過去に冤罪もかなりあり、新しい証拠が見つかり再審で無罪になった事件も少なくない。

栃木県足利市の女児殺害事件で無期懲役が確定しながら、DNA鑑定のやり直しで犯人ではないという結論が出た菅家利和さん(62)が4日、千葉刑務所から釈放された。その映像をテレビで見ながら、人を裁くことの難しさをあらためて感じ、裁判員制度は大丈夫なのかと思った。

DNA鑑定といえば、科学捜査の最先端のはずだが、菅家さんの事件当時の鑑定は旧来のやり方で現在のものとは精度は悪いことがはっきりした。かつて血液学の権威といわれ、日本の法医学の第一人者に古畑種基東大名誉教授がいた。

彼は多くの難事件について警察・検察の依頼で血液鑑定をし、その鑑定が決め手になって多くの被疑者が有罪になった。しかし、その後、弘前大教授夫人殺人事件はじめ再審で無罪になる事件が相次ぎ、文化勲章まで受章した古畑氏の業績に対しては現在では疑義が強い。

菅家さんの事件に戻るが、この事件のDNA鑑定の誤りは、科学が万能ではないことを警察・検察だけでなく、裁判所にも注意を促したといっていい。

菅家さんは過酷な運命にさらされた顔になっていたと思った。現在62歳だというが、窪んだ目、薄くなった髪からして同世代の男性よりも、かなり年上に見える。

17年間の獄中、何を考えながら生きていたのだろう。「警察官や検事は絶対に許さない。謝ってほしい」と怒る菅家さんのニュースを見ながら、当時の捜査関係者が何を考えているのか知りたいところだ。それだけでなく地裁、高裁、最高裁の裁判官たちはどう思っているのだろうか。

当時からDNA鑑定は、信じるに足るものだと考えられていたと言い訳をするかもしれない。もし、同じ状況下で裁判員が加わったとしたら、間違いなく有罪になっていただろう。

古畑鑑定、今回のDNA鑑定の誤りは科学捜査が100%でないことを私たちに示しているといえる。それだけに、裁判員に選ばれた人たちの責任は重大なのである。こんなことを書くと、裁判員に選ばれた人は戸惑うだろうか。言いたいのは、人を裁くということは生半可ではできないということなのだ。(ある朝、地下鉄銀座線で菅家さんを見かけた。年齢よりも老けて見えた。彼のこれまでの人生は何だったのだろうか)