小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

427 人間の原罪を問う舞台 劇団四季の「ひかりごけ」

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劇団四季の「ひかりごけ」の舞台を見た。日下武史らの4人芝居だ。初めから終わりまで暗い内容で、重い気持ちのまま舞台の4人に見入った。 武田泰淳のベストセラー小説を基にした、極限状況下「人の肉を食べてまで生きるべきか」を問うた芝居であり、幕間に近くの席からは「同じような状況に置かれたらどうする」という会話が交わされていた。人間の尊厳という大前提があり、平常では「そんなことはあり得ない」と答える人がほとんどだろう。しかし、生と死が隣合わせの状況に置かれた場合、人を食べるという行為を拒否して、従容として死を受け入れることができるだろうかと思った。 武田泰淳が小説を発表したのは1954年のことである。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)12月に北海道で起きた日本陸軍の徴用船の遭難事件をモデルに、人間を食べると、暗い所では首にヒカリゴケのような光の輪が見えるという挿話を入れ、題名を「ひかりごけ」としたことから、徴用船の遭難事件は「ひかりごけ事件」呼ばれるようになった。 この事件については、元北海道新聞記者の合田一道氏がノンフィクション作品「裂けた岬 ひかりごけ事件の真相」(1994年、恒友出版)を出版している。小説が出たあと、船長が乗組員を殺し、その肉を食べたという噂が広まったが、合田氏は15年に及ぶ取材で真相を明らかにした。 それによると、事件の経緯は次のようなものだ。43年12月3日根室港から軍需物資を乗せた第五清進丸(30トン)が小樽港へ向け出港、途中大しけのため、船は知床岬のペキンノ鼻といわれる地点近くで遭難した。 船には船長以下、計7人が乗り組んでいたが、避難のために番屋といわれる小屋にたどりついたのは船長と19歳の少年だけだった。食べる物がなく、力尽きた少年が死んだあと、船長は彼の遺体を食べて生き抜く。2カ月後、船長は自力で羅臼の漁民の家まで助けを求め、生還する。 船長の生還は当時の新聞にも取り上げられ、彼は英雄に祭り上げられる。しかし、春がきて番屋に行った漁民が近くで人骨を発見、警察に届けたことから船長は逮捕され、裁判では死体損壊罪で懲役1年の実刑判決が下った。船長は出所後40数年、ひっそりと暮らし、1989年(平成元年)12月、76歳で死亡した。 舞台(登場人物は船長以下4人)は、極限状況にあって人間を食べるという原罪に対する問いかけを中心に、前編は船の遭難後生きるために人を食べる選択をする船長らを描き、後編は罪に問われた船長が裁判で裁かれる場面が前衛的舞台装置(天井まで白い壁でふさがれ、上下左右、舞台奥に碁盤目のように線が入っている。さらにところどころに円形の小さな穴が開いている)の中で演じられた。 後編は、裁かれる日下のみが舞台に登場し、壁には裁判官や検察官、弁護人を想定した様々な面が掛けられている。前、後編合わせて1時間10分程度の舞台だが、観客に「人間の尊厳とは何か」という重いメッセージを送り続けているのではないかと思った。いま日本社会は、自殺者が11年連続して3万人を超えている。そんな、命の軽い時代に対する問いかけでもあるようだ。(写真は四季のパンフから) 追記 1972年10月、ウルグアイラグビーチームが乗った飛行機が雪のアンデス山中に墜落するという事故があり、乗員5人、乗客40人が山に投げ出された。そのうち16人が71日後に救出されたが、彼らは亡くなった肉親やチームメイトの肉を「神が与えてくれた食糧」として食べ、生きのびたことが分かった。16人は罪に問われることもなく、世論の批判も受けなかった。のちにこの事故は「アンデスの奇跡」として映画化される。