小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

337 焼津の小泉八雲記念館 平仮名の妻あての手紙

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周囲に日本人女性と結婚した外国人がいる。日本語は流暢で、電話で話した人は、彼が外国人とは気がつかないかもしれない。会話だけなく、書く方も日本人にひけをとらない。 なぜこんなことを書くかというと、最近日本に帰化した明治の文豪、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の記念館を訪れ、彼の直筆を見たからだ。それは、まるで小学生低学年の子どもが書いたような、たどたどしいもので、周囲にいる彼とは比較にならないと思った。 小泉八雲というと、島根県松江市を連想するが、実は静岡県焼津市に「焼津小泉八雲記念館」が2007年6月にオープンし、焼津と八雲のかかわりを知ることができるのだ。なぜ、小泉八雲の記念館が焼津にあるのか。焼津とのかかわりを記す文献はあまりない。インターネットのフリー百科事典・ウィキペディアにも出ていないし、広辞苑にもない。最近、焼津を訪れ、偶然この記念館をのぞいて納得できた。 小泉八雲は、1850年ギリシアで生まれ、2歳で父の実家があるアイルランドのダブリンに移る。19歳で単身アメリカに渡り、新聞記者をしたあと、40歳の時に日本にやってきて、松江で英語の教師をする。松江には1年しかいないが、ここで日本人の節子さんと結婚し、その後は熊本の五高、神戸の英字新聞、東大講師などを務めるが、1904年に心臓発作で亡くなる。 一連の日本に関する著作(印象記、随筆、物語)は神戸時代の1894年から出版され、有名な『怪談』(耳なし芳一のはなし」「むじな」「ろくろ首」「雪女」)は 1904年 の作品だ。しかし、これらは、英文で書かれたもので、日本の読者は翻訳されたものを読んだわけだ。 記念館でもらったパンフレットによると、焼津に八雲が初めてやってきたのは東大に移った1年後の1897年だという。夏休みを海で過ごそうと思った八雲は焼津の海が気に入って魚商人の家の2階を借り、計6年、暑い夏を焼津で海を見ながら送った。もちろん、焼津に関する随筆もある。2階を貸した山口乙吉に関しても書いている。そうした縁で記念館がつくられたのだ。JR焼津駅前にも八雲の記念碑がある。松江とともに焼津は、八雲が愛した街といえよう。
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焼津滞在中、八雲は節子さんあてに何通かの手紙を書いている。それは、ほとんどがひらがなで、節子さんの名前は「セツさん」とカタカナにしている。いくら文豪の八雲といえでも、日本語は難しい言語だったのかもしれない。ましてや、40歳での来日なのだから、漢字を覚えるのは至難の業だったのだろう。 岩波新書「外国語学習の科学」(白井恭弘著)には、現在のアメリカの大学では50分、週4回、計3カ月の授業で学期末には15分の日本語会話ができるようになるプログラムがあると紹介されている。しかし、これらの学生でも日本語を漢字、かな交じりの文章で書くには相当の時間が必要だろう。八雲の手紙を見て、外国人から見たら日本語は難しいのだろうなと想像した。
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(焼津の浜辺にあるみずがめ座のイラスト)