小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

300 クラシックとの再会 仕事の合間のコンサート

猛烈に仕事が忙しい時代に、ある交響楽団の定期会員になり、仕事の途中で演奏会に足を運んだ。会場はいつも新宿の厚生年金会館だった。たまに音楽でも聴かないとストレスがたまってしまうと思ったからだ。それが私の場合はクラシックだった。

中学の音楽の授業で聴いた幾枚かのクラシックのレコードの演奏がずうっと心に残っていた。しかし、その後は年に1回演奏会に足を運ぶどうかという、クラッシクとはあまり縁のない生活を送った。

クラッシクと本格的に再会した定期演奏会では、交響曲のほかに内外の一流の演奏家による協奏曲が楽しみだった。いまでは超一流であるチェロのヨーヨー・マやかつて天才少女といわれたバイオリンのローラ・ボベスコ(おばさんになっていたけれど)など、売り出し中の演奏家による美しい響きが疲れた心を元気付けてくれた。

身体は疲れきっていて、ともすれば眠ってしまうこともあった。ピアノの中村紘子モーツァルトのコンチェルトはさすがに緊張して聴いた。それ以来、モーツァルトが好きになった。それまではどちらかというと、ベートーベンの重厚さが好きだと思っていた。

しかし、モーツァルトの曲は変幻自在であり、いつの間にか心の氷を溶かしてくれるような不思議な温かさがあることに気づいたからだ。

コンサートが終わると、厚生年金会館前から新宿駅までの10数分をふだんせっかちな私がのんびりと歩いたのだった。夏の暑さや冬の寒さを忘れ、コンサートの余韻の中を一人で歩くのが好きだった。午後9時が過ぎている。一人で遅い夕食をとり、その後再び仕事に戻るのだった。

楽家には、絶対音感(辞書によると、ある音の高さを他の音と比較せずに識別する能力)が備わっている人が多いという。もちろん、モーツァルトはその一人である。必須の条件ではないが、これがあった方が音楽家には向いていると、最相葉月さんは「絶対音感」という本で書いている。

私も絶対音感があったなら、音楽家になったと思うが、そんなものとは全く縁がないDNAだった。絶対音感がなくとも大作曲家になったケースもあるそうだから、好きな人は音楽をやればいいと思う。

1年間のひそかな楽しみは、職場のだれにも気づかれずに終わった。しかし、何も言わなかった同僚が私のある記念日にサントリーホールN響コンサートのチケットをプレゼントしてくれたことがある。指揮者はビンカス・スタインバーグで、演奏されたのはモーツァルトの作品だった。

彼は、私のささやかなサボリ行為を知っていたのかもしれない。作家・佐伯一麦の「読むクラッシク」(集英社新書)を手にとって、その造詣の深さに感心し、つい書いてみたくなったのがこのブログである。