小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

294 何気ない家族の光景 「歩いても 歩いても」

何気ない日常の会話が続きながら、妙に奥の深さを感じさせる映画を見た。是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」という題名からして変わった作品だ。 15年前の夏に海の事故で死んだ長男の命日に集まった家族の話である。涙を流したり、手に汗をかいたりはしない。でも面白いし、考えさせられる。淡々とした会話や食事の光景を通じて、この家族の問題が浮かびかがってくる。 こんな話を聞く。親よりも子どもが先に死ぬのは親不孝であり、親の悲しみは強い。しかし、こうした親不孝の子どもほど、親から見れば出来がよく、将来性があったはずなのだと。周囲にも同じような話があった。 映画でも、元医師の父と母は海でおぼれた少年を助けようと飛び込み、亡くなった長男を忘れることはできない。医師としての跡取りであり、希望の星だったはずだからだ。 残されたきょうだいは、そんな故人と比較されると、あまりいい感情は抱かない。失業中の次男(阿部寛)と元医師(原田芳雄)の父親とのすれ違いの会話がまた絶妙なのだ。 親の悲しみの深さは恐い。長男に助けられ青年も線香をたむけにやってくる。次男はもうこれでいいのではと母(樹木希林)に言う。しかし母は1年に1度くらい青年がつらくていたたまれない思いをするのは当然という趣旨のことを言って突き放す。15年が過ぎても最愛の息子を失った悲しみは癒えていないのだ。 時々、周囲からは笑え声が聞こえる。たしかにユーモアのある作品だと思う。しかし、なぜか私は笑えなかった。次男の家族が帰った後、両親は「次は(半年後の)正月だな」といい、次男家族は帰りのバスの中で「1年に1回帰ればいい」と語り合う。この落差をどう考えたらいいのか。 ふと昔見た映画を思い出した。渥美清の寅さんシリーズだ。妹・さくらの夫の父親が亡くなり、寅さんがその葬式の面倒をみる。残った家や土地をめぐってきょうだいが言い争う。「男はつらいよ」という喜劇作品を通じて、山田洋次監督が家族が抱える問題を訴えたかったのだろうと思ったものだ。 いまの日本社会は、家族の関係がもろい時代だといわれる。子どもが親を殺し、親が子どもを殺すという凄惨な事件が相次いでいる。耐えることを忘れた時代が現代なのだろうか。
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