小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

286 だれにでもある原風景 「海に帰る日」

原風景はだれでも持っている。その育った環境、その人の感性によって大きく異なる。海辺近くに住んだ人は、海での出来事が原風景になっているかもしれない。山や川を間近に育った人は、そうした自然環境での体験が心に残っているだろう。 アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルは、2005年度ブッカー賞を受賞した小説「海に帰る日」(新潮社、村松潔訳)で、遠い少年時代を追憶し、ひと夏の少女やその母親との交流を繊細なタッチで再現、妻に死なれた男の心の動揺を綴った。 海に帰る日の中で、妻に先立たれた老美術史家は喪失感を抱いて少年時代を思い起こすように海辺の町に向かう。少年の日に彼は奔放な少女と双子の弟と出会い、肉感的な2人の母親にひそかに惹かれる。 短いある夏の出来事だ。バンヴィルは、少年の夏を軸に老美術史家の人生を巧みな筆遣いでたどっていく。不思議な感懐を抱かせる物語だ。つい原風景を考え、少年時代の私を振り返る。 JR(旧国鉄)の列車とJRバスを乗り継いで通学した時代があった。家を出て1時間半以上かかる遠距離通学だった。人と話すのはおっくうで、友人とはおしゃべりしない。将来の目標もまだはっきりしていなかった。 図書室で借りた文学全集を読むか、窓の外の景色をぼんやりと見ながら通学の時間を過ごす日々だった。 ある朝、列車の中でヘルマンヘッセの「車輪の下」を読んでいた私がふと目を上げると、色の浅黒い少女が目の前にいた。どこから乗り込んできたかは知らなかった。目が大きく、髪をお下げに結んでいる美しい少女だった。 列車からバスに乗り継いでも、その少女はすぐ隣にいた。少女も偶然にも「車輪の下」をかばんから取り出し読み始める。彼女も私が同じ本を読んでいることに間もなく気が付いたようだった。彼女の頬がかすかに赤くなった。 その後数年間、毎朝のようにこの少女とは同じ列車、バスに乗り、読書時間を共有した。だが、お互い名乗ることはせず、目礼を交わすだけの間柄だった。 私には、気になる存在だった。ヘッセの本を持った少女と途中下車して、清流沿いの道を歩くことを夢想した日もあったが、話をする機会がないままに遠距離通学の時代が終わった。 少女は私の原風景を形成する一人である。その後、ふるさとを離れた私には、少女のその後の人生は知らない。しかし、いまでも文学を愛し、豊かな精神を持ち続けているだろうと、勝手な想像をするのだ。
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