小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

283 伝達手段の変化の時代

インスタントコーヒーを飲まない人でも、ネスカフェーの「違いの分かる男」のCMは、記憶に残っているはずだ。テレビ、新聞、雑誌とCM全盛時代が続いている。私は、CMの分野ではやはりコピーライターの世界に一番興味を持つ。短い文章で商品の魅力を表現するには、固い頭ではとうていできない仕事だ。憧れの仕事の一つだった。

「達意の文章」という表現がある。辞書には達意の意味として「自分の考えが十分に相手に理解されるように表現すること」と書いてある。文章は言葉と同時に人間が使うことができる最高の伝達手段だ。コピー(広告文)はその中でも大きな力を持つ。達意の文章の際立ったものではないか。それだけに人の心に響き、購買に結びつくのだろう。

文章を磨きたいと思う人は少なくないはずだ。そのために読書に励み、美しい文章を探し、新聞のコラムを欠かさず読む。うまいと感心する文章は多い。だが、インターネットのブログ文化(こう呼んでいいほど利用者は多いのだ)は美しいはずの日本語をだめにしているのではないかと思うことがある。もちろん、すべてのブログではないが、自分を含めての評価である。

なぜかと考える。本来ブログは日記風に自分の考えを記すものなのだから、別にうまい文章を書く必要はないといわれれば、何も言うことはできない。しかし、できるならつぶやき的な日記よりも達意の文章を読みたいと思う。

たまたまブログを始めてうまい文章の書き手に巡り会った。どんな人かは知らずに「フレンド」登録をお願いしている。ニックネームは「空」さんで、女性と思われる書き手は「風を待ちながら」(http://freeport.at.webry.info/)というブログを書いている。そこには達意の文章があり、写真も素晴らしい。読むのが楽しみのブログの一つある。

ところで、秋葉原通り魔事件の犯人は、携帯電話から掲示板というサイトに犯行に至る心理状態を投稿していたことが連日報道されている。それはただ、感情的な言葉の羅列である。いま、私たちはそうした感覚的、感情的なブログ言葉と共存し、言葉の変化を日々感じている。文章は難しいとますます思い続ける毎日。そんな中で広告文は、どう変化していくのだろう。