小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

256 ワインは好き でもこの男は

家族からこんな話を聞いた。「うーん」と思わずうなってしまった。ある日、家族は渋谷に行くため、東京から山手線に乗った。午前11時半ごろである。

新橋を過ぎて、浜松町に電車は止まった。立っている家族の横の席が空いた。そこには70歳くらいの男性が立っており、家族は当然この男性が座るものと思っていた。すると、信じられないことが起きたのだという。

男性の何人かわきに立っていた男が突然滑り込むようにその席に突進し、無理に座ったのだ。周囲の乗客はもちろん、男性もぼう然としている。男はそんな乗客たちのことなどわれ関せずといった感じで、持っていた袋からサンドイッチを取り出し、食べ始める。

さらに、テキストのようなものを点検している。冊子には「ワインマナーについて」と書いてあり、ほかの書類から見てソムリエ教室の講師に間違いない。彼はほかの乗客は目に入らないような様子だ。男の年齢は40-50歳の間くらい、服装はしゃれている。男はサンドイッチを食べ終え、書類を見終えると、渋谷で降りた。

電車の中で携帯電話の画面に見入る姿は、いまや珍しくはない。ものを食べ、化粧をする若者も少なくない。それだけでなく、最近は優先席で堂々と携帯を操作する中高年の姿を見るようになった。電車の中で自分の世界に入り込み、他の乗客の迷惑は考えない行動だ。

山手線も男の行動も、他人の目を気にしない最近の一部日本人の典型ともいえよう。山手線はいつの時間帯でも混雑している。そんな中でも気ままに振舞う人たちがいることが不思議でならない。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえられるようになるという意味だ。だが、いまの日本は「飽食窮民」(食べるものは何でもあるが、生きる目標がないままに日々を送る人々)があふれる時代であり、衣食が足り過ぎて礼節を失っている人々が増えているのも現実の姿なのである。

家族とワイン専門店に行った。世界各国のワインが並んでおり、ワイン愛好者が増えていることをうかがわせる。ワインに関する専門知識を持ち、レストランで客の要望に応えてワインを選ぶ手助けをするソムリエという職業も認知されている。

山手線の傍若無人の男を目撃した家族も、ワインが大好きだが、「あんな講師に教わりたくないので、ソムリエ教室はごめんだわ」ときつい口調で言い切った。あまりの剣幕に、私はうなり、そして黙ってしまった。そうか、そんな世の中なのかと思いながら。