小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

248 ことしも桜が咲いた 心和む春…

画像
日本人はなぜ桜が好きなのだろう。国花であり、日本全国でこれほど花を愛でる楽しみを与えてくれるのは、桜しかないのかもしれない。 朝と夕、散歩する道や公園はいま冬から開放され、華やかな季節を迎えた。そう、桜が満開になっているからだ。この花を見るとき、その人の心次第で変化がある。時には和み、あるいは心が憂える。 私の桜との出会いを記してみる。小学校の入学式の当日、学校の桜は満開だった。その後、4キロほど歩いて遠足に行った。目的地は、清流のすぐ脇にある桜が美しい公園だ.。 そう高くない山を中心とした公園には数多くの桜があった。子どもの私たちは、桜を楽しむという感覚はない。ただただその辺を歩き回り、弁当代わりに母がつくってくれた握り飯を早く食べたいと思う。 小学生時代の遠足は、いつもこの公園だった。だから、桜の季節には必ずこの公園と友人たちを思い出す。比較的、この公園の近くに住んでいた同級生が亡くなったと聞いたのは、ことしの1月下旬だった。 奥さんも同級生で、数年前の同級会の幹事をやり、みんなにひやかされていた。そんなにやつれていたとは思えないが、当時から病を抱えていたのかもしれない。 私の生まれた家の裏山には、樹齢何百年という大きな山桜があった。ソメイヨシノに比べると、開花は遅い。葉が出たあとに赤い色に近い花が咲く。 私は遠足に行く公園の桜、ソメイヨシノよりも山桜の方が好きだった。山桜の下には私の家が見える。そこには、私を見守ってくれる母がいたからだ。 私が家を出て何年かしたあと、この桜がなくなった。寿命がきたのか枝が一部枯れ始め、花も少なくなった。さらに数年後、家を継いだ兄はこの桜を伐採した。それほどに桜は弱っていたのだ。その後、あのような見事な山桜を見たことはない。桜の木の一部は、兄が家を改築した際に利用し、姿を変えて兄たちを見守っている。 散歩の途中、桜を愛でる多くの人に出会った。だれもが屈託のない表情をし、憂い顔をした人はいない。みんな心が和んでいるのだと思いながら、ゆっくりと歩を進める。花びらが頭上から舞ってくる。 その時ふと頭をよぎったことがある。夫を亡くした同級生はこの桜をどんな思いで見るだろうか。憂いの顔をしながら、夫と見た桜を思い出しているのかもしれないと。