小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

238 青函連絡船百年 感動の再会

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ことしは、青函連絡船が就航して百年になる。青函トンネルの開通によって、連絡船の役割を終えたのは、いまから20年前の1988年3月13日のことだ。 お台場にある船の科学館で今月7日、感動的な催しがあった。科学館の岸壁に係留されている青函連絡船、羊蹄丸の最後の船長、鈴木繁さんと、徹夜をしながら羊蹄丸にようやく乗ることができた西尾徹さんら12人の乗客が集まり、20年ぶりに再会したのだ。 西尾さんは当時20歳。青函連絡船がなくなるというので、函館に駆けつけ3日も岸壁で段ボールを使って暖を取りながら、ようやく羊蹄丸乗ることができたという。西尾さん以外の11人も同じような経験をした。 西尾さんの発案で、60人もの人たちが船長に贈るメッセージをノートに書いた。それを鈴木さんは大事に保管していた。一方、西尾さんらは仲間意識が芽生え、以来付き合っている人も少なくないという。12人の思い出の集大成は、「段ボール」「津軽海峡冬景色の大合唱」だった。 私も一度だけ、青函連絡船に乗船したことがある。いまから35年も前のことだ。「行きはよいよい帰りは恐い」ではないが、行きはセスナという小型飛行機だった。この飛行機は、いまは飛んでいないかもしれない。悪天候の中をどうしても函館に行く必要があって当時勤務していた仙台からセスナに乗ったのだった。 函館近郊で鉄砲水に集落が襲われ、20人近い犠牲者が出た。その取材の応援として、上空から被害地域のルポをする仕事だった。揺れはひどい。パイロットは被害地域の近くにきても、降下してくれない。 気流が悪く、危険だというのだ。だから、満足なルポは書けない。達成感がないままに函館空港に着いた。ところが、パイロットがなぜか焦った顔をしている。聞くと、ブレーキの調子が悪く、困っているというのだ。 結果的にブレーキがあまり効かないままに、空港に着陸した。パイロットいわく「飛行機は故障したので、帰りは勝手にしてください」。すごすごと函館港から当時の国鉄青函連絡船に乗り青森に行き、電車を乗り継いで仙台に帰った。 青函連絡船がなくなってもう20年の時間が経過した。船の科学館に集まった西尾さんらは中年世代になっている。彼らにとって、最後の青函連絡船は、貴重な青春時代の思い出になっているのだろう。私も、西尾さんらの姿を見ながら、若い時代を振り返った。 船の科学館には連絡船として活躍した羊蹄丸と南極観測船宗谷が係留されている。