小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

231 有森裕子のマラソン哲学

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日本の陸上競技女子選手で、五輪の2大会連続してメダルを獲得したのはマラソン有森裕子だけだ。1992年のバルセロナ五輪の銀に続いて1996年のアトランタ五輪では3位でゴールした。そのときのインタビューは今でも記憶に残る。「メダルの色は、銅かもしれませんけれども、終わってから、何でもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……。初めて自分で自分を褒めたいと思います」。 長い間マラソンを走ってきたという有森のマラソンへの思いを東京マラソンのフォーラムで聞くことができた。有森はマラソンについて「入り方は特殊だったが、必死にやってきて、マラソンランナーを終えたいまはマラソンの可能性を感じている」と話し出した。 マラソン選手を目指したいきさつは、有名だ。小出監督への押しかけ弟子志願、素質は恵まれなかったのに、持ち前のハングリー精神で頑張り抜き、2大会連続メダル獲得の金字塔を打ち立てる。 有森によると、彼女は生まれつき股関節脱臼だった。この異常を母親が見つけ半年矯正ベルトをかけて直してくれたという。私の次女も同じ状態で生まれ、半年間矯正ベルトをかけた経験があるだけに、有森の話は他人事とは思えなかった。 そんな有森は、小学生のころ体育は劣等生だったという。リレーも補欠だった。小学6年生の陸上競技の教師との出会いがマラソン人生に入るきっかけとなる。陸上クラブに入った有森はこの教師によって「何でも懸命にやれば、何かができる」ことを学んだ。有森は中学に進んで、800メートルを選び、中学の3年間校内ではだれにも負けなかった。しかし、記録は平凡だった。 高校でも目立つことはなく、国体にも出場の機会はなかった。大学には嘆願書を書いて入学した。陸上選手としてここでも芽が出なかった。中学の教員になろうと、母校の高校で実習に行った。 偶然3000メートルの記録会に出たら、ベスト記録に近いタイムで優勝する。「もっとしっかりしたメニューで練習をしたなら記録も伸びるだろう」と思ったという有森。プラス志向というのだろうか。ひげの小出監督に直訴して1989年、リクルート事件で大揺れのリクルート社に入社する。押しかけ入社なのだが、逆風の会社の入社式で社長は「来てくれてありがとう」と話したそうだ。 そんな意気込みで入ったリクルートだが、伸び悩んだ。迷い続けた有森は「健康や楽しみのために走るのではない。走ることをお金にすることを選んだのだ」と決意し、「よし実績を出すことに集中しよう」と考えた。すると練習態度も変わり、次第に記録も出るようになったという。その後の活躍はここで記すまでもない。 有森は「スポーツを通じて世界が見える。自分のやっていることで社会のために何ができるかを考えることが多い」と語る。その延長線上にNPO活動がある。途上国の子どもたちを元気づけよう、夢を持てないでいる人を勇気づけようと1996年からかかわっているカンボジアアンコールワット国際ハーフマラソンもその一つだ。義手・義足の人たちも走るこのマラソンは、有森のライフワークになりつつある。 有森にとってマラソンは、現役時代は食べるための手段だった。しかし引退したいまは社会貢献の手法であるという。ハングリー精神から奉仕の精神への転換。有森の顔からは現役時代の挑戦するような表情は消えていた。 しかし大きな記録を達成した人物が持つ輝きを感じたのは私だけではないだろう。有森は、17日の東京マラソンで10キロレースに出場する。現役時代と違って、楽しんで走る元メダリストの姿が見られることだろう。(写真は有森さんの公式ブログから)