小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

226 変わらぬ「飽食窮民」の時代 赤福、中国ギョーザ

消費期限や製造日、原材料表示の偽装行為で営業をやめていた伊勢の赤福が営業を再開したら、店の前に徹夜の行列ができたという。

先に再開した北海道の白い恋人の方は、売り切れが続出しているそうだ。賞味期限を偽ったことで、消費者離れが進むと思ったら、それは違ったようだ。土産物の上位にランクされた2つの商品に対する人気が強いのか、それとも日本人の野次馬根性なのかは分からない。

殺虫剤入り中国製ギョーザ問題が食品の安全を問う時代に、この感覚はどうなっているのか。何とも不思議としか言いようがない。

「飽食窮民」という本を斉藤茂男が書いたのは1991年だった。食べるものは何でもあるが、生きる目標がないままに日々を送る日本人。斉藤は当時の日本社会の病理をノンフィクションとして、数人の記者とともに報道した。その実態は斉藤が筆を振るってから17年が過ぎても変わってはいない。

日本人は「熱しやすく冷めやすい」国民性が特徴だと指摘される。メディアの報道を見ていれば、それは間違いないとだれでもが理解できる。

あれほど、白い恋人赤福の企業倫理を問う報道がされ続け、営業停止になったにもかかわらず、野次馬とも思えるファンが赤福の開店に当たって徹夜で開店待ちをしたり、空港の売店では白い恋人を大量に買い漁る。テレビでは大食い競争を売りにした番組もあり、大食いタレントもいる。赤福の徹夜組の姿を映像で見て、斉藤の「飽食窮民」を思い出したのだ。

その飽食の材料が中国を中心とした外国からの輸入に頼っている実情は変わらない。というよりも、輸入依存はますます高まる傾向だ。これに対する危機感は、政府もメディアにもあまりないようだ。(政府は当面45%を目標にするといっているが、具体策はない)飽食の時代は、実は砂上の楼閣なのである。それを示したのが今回の中国ギョーザ騒ぎではなかったか。