小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

173 ミャンマーと相撲界 時代に逆らう

何度も映画化された竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」によって、ビルマ(現ミャンマー)という国名は、日本人の多くに強い印象を与えた。太平洋戦争で日本軍が占領した地域であり、小説のように、終戦後もそのままビルマに残った日本の軍人は少なくないといわれた。

彼らは山岳部で反政府勢力の中で生きたため、望郷の思いを抱きながら帰国を果せぬままに異国の土になったという説である。真偽は分からない。

その旧ビルマはいまは軍部の独裁政権だ。それに対抗したミャンマーの僧侶たちのデモと軍事政権による制圧、日本人ジャーナリストの死という動きを見ていて、時代の流れに逆らう人々の存在をなぜか感じている。

時代の流れといっても、そう難しいことではない。ソ連の崩壊、中国の市場経済優先の動きを見ていれば、ミャンマー北朝鮮のような軍事政権・独裁政権による閉鎖社会はいつか行き詰まるということを言いたいのだ。

ミャンマーの僧侶たちのデモは、力で一時は制圧されたかもしれない。しかし早晩、軍事政権に対する民衆の反発は再び起こることは間違いないだろう。国際社会の目は、アジアの途上国の一国にはこれまであまり届かなかった。今後はそうではあるまい。国民の意思や国際社会の支援によって、時代に逆らえば、軍事政権は崩壊へと傾き始めるはずだ。

同じように、時代に逆らい続けているのが、国技といわれる大相撲の世界だ。入門したばかりの若者に対し、昔ながらのしごきで死に至らせてしまう。「愛の鞭」といえば聞こえはいいが、やはりしごきなのだ。

モンゴル出身の朝青龍問題も、相撲界が近代化していないことを証明したようなものだ。だから、スポーツ紙やワイドショーの餌食になって、相撲界がぼろぼろになるのではないかと想像せざるをえない。

その結果、ファン離れはもちろん、相撲界に入門する若者も激減することは目に見えている。かつて必ず見ていたテレビ中継から私も縁が遠くなりつつある。角界の非常事態といえるだろう。それを協会関係者はどこまで認識しているか。国技館の「升席」の狭さも常識外だ。大柄な外国人だけでなく、日本人でも4人が座ると窮屈で、相撲の楽しみが削がれてしまうのだ。外国人には、この升席に座ることは拷問に思えるかもしれない。

時代を読むことの大事さは、リーダーには不可欠の要素といえる。2つの事象を見ていて「時代を読む」感覚が欠如したリーダーが君臨しているために、人命を巻き込んだ悲劇が起きていると私なりに考えるのである。