小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

172 小説『どろがめ』 あるクリスチャンの波乱の生涯

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この世にはいろいろな人間がいる。そしてすべて個性が違う。だが、この小説の主人公である「どろがめ」こと「亀松」のような、魅力あふれた人物はそうはいない。(「どろがめ」は燦葉出版社刊) 昨今、人間不信となるできごとが何と多いことか。この日本は、戦後の高度経済成長、さらにバブル期、その崩壊、失われた20年という時を経て一応の安定期に入った。しかし、政治も企業も官界からも「節度」という言葉がなくなったように、綻びが次々に表面化しているのだ。 そうした日常の中で、亀松の破天荒ぶりとキリスト教に出会ったあとの一途な生き方を描いたこの作品(神戸在住の主婦、工藤久美子さんの処女作)に接して心に涼風が流れ込んできたような、そんな爽やかさを味わったのである。 この作品は大正から昭和にかけて福岡県大牟田市でクリスチャンとして多くの敬愛を集めた大城亀松氏をモデル(小説では大森亀松)にした小説だ。作者の工藤さんもクリスチャンである。ご主人の仕事の関係で神戸から広島に移り住み、そこで知人から大城氏の生涯を記した小冊子をもらい、その生き方に「驚嘆」し、神の啓示のごとく「この人のことを小説にしたい」という思いが湧き起こってきたのだという。 小説を書きたいという作者の思いは、この作品から強く伝わってきた。朝、夕の電車の中で一心に読み続け、最後の数頁を家に帰って読み終えた。涙が流れた。 炭鉱町で酒と博打とけんかに明け暮れるどろがめの姿は、まるで「無法松の一生」に似た映画の世界かと思う。周囲からは疫病神のごとく忌み嫌われ、まるで泥の中をはいずり回るかめのように思われたのか、どろがめと言われるようになった大城氏がキリスト教と出会う場面は秀逸だ。 どろがめをキリスト教へ導く、嫁のウタ。そして「キリストを大親分」という表現で絶妙な説教をする牧師なくして、どろがめは信仰の道に入らなかっただろう。 小説は、当初はウタの苦しい生活ぶりを中心に描いている。それはどろがめを登場させる伏線なのだ。ウタを助けたのはどろがめの息子であり、どろがめ一家に嫁いだウタがキリスト教に入信したことで、45歳にして厄介者といわれたどろがめは「大親分である神の子分」になり、88歳で生涯を閉じるまで神の子分を貫くのである。 この作品に描かれたどろがめは破天荒な生き方を貫いた。洗礼前の無茶を繰り返した時代、洗礼後の暴力に耐えた時代、太平洋戦争の天皇崇拝を拒否し投獄された時代、保護司として少年たちを親代わりで見守った時代、それぞれを作者は見事に描ききった。人は一生でこうしたどろがめのような魅力ある人物に出会うことができるのだろかと考える。それは稀有なことだと実感する。 作者の工藤さんはクリスチャンだ。45歳にして洗礼を受けた男の物語という性質もあり、この作品にはしばしば聖書が引用される。しかし、キリスト教の門外漢の私にとっても違和感はなかった。どろがめがいかに聖書にも親しんだか理解できるのだ。 宗教・キリスト教について無知な私はこのような素晴らしい人物の存在を知らなかった。しかし、このような作品に出会い、人生もまんざらじゃないと考えている。 人生に疲れた読者がこの作品を読めば、生きることに希望が湧いてくるはずだ。そんな小説はそう多くはない。その意味でも「どろがめ」は、故三浦綾子の作品に共通する、人に生きる力を与えてくれる強い何かを持っている作品なのだ。作者の次作が待ち遠しい。