小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

167 カフカ・変身を読む 非日常的ながら現実を投影

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周囲に読書好きがいて、ある日「カフカを読みませんか」と、手渡されたのが「変身」(白水Uブックス池内紀訳)だった。いまさら変わった作品で知られるカフカでもあるまいと、数日放っておいた。

読書好きは、村上春樹の「海辺のカフカ」に触発されて、カフカに手を伸ばしたのかもしれない。私といえば、カフカのような「訳の分からん」作品とはもう付き合えないと思っていたので、以前も読んだし、いまさらという気持ちでいっぱいだったのだ。

ふと、時間に余裕ができた。目の前にあったカフカを手に取った。意外や意外、池内紀(ドイツ文学者)の翻訳がうまくて、すうーっと頭に文章が入ってくる。書き出しがいい。「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた」

以下は、白水社のこの本のセールス文章。

「ある朝、セールスマンのグレーゴル・ザムザは気がかりな夢から目覚めると一匹の虫に変身していた。あおむけに寝ている背中が鎧のように固く、茶色い腹からは無数の細い足が生えていた。

なぜ虫に変身したのか、作者は何ひとつ説明しない。ひたすら冷静に、虫になった男とその家族の日常を描いてゆく。父と母と息子と娘の四人家族、その唯一の働き手が虫になったからには家族のそれぞれが日常の変化を強いられる。しかし誰もがこの変身に対して疑問を感じていない。とりわけ奇妙なのは、主人公自身が突然の変化をいささかも奇妙に思っていないことだ。カフカの数多くの風変わりな作品の中でも、ひときわ異彩を放つ小説。」

私の文章の続き 

 

チェコプラハ生まれのカフカが「変身」を書いたのは1912年のことである。95年前といえば大昔であるはずだ。だが、現代の話といっても違和感がないから不思議なのだ。

人間には変身願望があるが、虫に変身したいと思う人あまりいないだろう。この作品の主人公・ザムザに変身願望があったかどうかは分からない。何しろ、なぜ虫になってしまったのか、カフカは説明しない。

しかし、おぞましい虫になってしまったザムザに対する家族の扱いは現代と共通するものが多いのが、いまでもカスカ作品に多くの読者がひきつけられるゆえんなのかもしれない。

世の中には、虫のように軽く扱われる人間も少なくない。「格差社会」では、そうした人間は増える一方だろう。ホームレスだけではあるまい。

インターネットカフェで寝泊りする人、定年退職しても家に居場所がない人等々。まるでザムザと同じ生活なのである。

ザムザは当初、家族から心配され(怖れられ)るが、次第に疎ましいものとなり、死んでいく。その結果、ザムザの家族はホッとして電車に乗り、郊外に行く。この結末をどう読んでいいのか私には分からない。それがカフカの難しさなのか、あるいは変な小説なのか。