小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

97 ある中国残留孤児物語 苦節24年餃子で成功

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友人に「八木功さん」という元中国残留孤児がいる。彼は中国の大連で生まれだが、終戦時の混乱で中国に取り残され、ようやく1979年に日本に帰国した。帰国後彼は餃子を中心にした中国の家庭料理の店を東京で開き、23年目にして4軒のオーナーになった。 苦節23年。「うまい料理を安く提供したい」が彼のモットーだ。 ソ連軍の旧満州への侵攻によって、家族と離ればなれになった八木さんは、多くの残留日本人と同様、辛苦の少年時代を送り、成長してからは大工として生計を立てていた。ようやく日本の身寄りと連絡が取れ、帰国したのは日中国交回復後のことだった。 帰国後、子供を水の事故で失った八木さんは、世話になった友人らに餃子をつくってふるまった。これが絶賛され、餃子を中心にした中国の家庭料理の店を開くよう勧められた。 彼は自分の腕が日本で通用するかどうか自信はなく、料理学校に通った。さらに問題は開店資金だった。しかし、彼の誠実な人柄を信じた友人たちがカンパを募り、開店資金として370万円が集まった。 京浜急行蒲田駅近くに中国家庭料理の店「ニイハオ」が開店したのは、1983年12月のことだ。小さな店だが、水餃子と焼き餃子、小籠包子が人気を呼んだ。焼き餃子は、いまでは珍しくはなくなったが、片栗粉を水で溶いてかけた「羽根付き餃子」として、八木さんが考え出したものだ。 ニイハオは客が行列を作る店になった。八木さんは年中無休を貫き、数年してカンパしてもらった人たちにカンパ額を返済したのだ。このエピソードをみても彼の律儀さ、誠実さが分かるのではないか。 月日が流れ、ニイハオは蒲田だけでなく、東京では「知る人ぞ知る」店になった。餃子といえばニイハオを私はすぐに思い起こすのだ。 八木さんの頑張りはすさまじく、本店に続き別館、町谷店をオープンさせ、この25日にJR蒲田駅前の西口店が開店した。23年の歳月で見せた八木さんの奮闘振り、経営の才覚は、凡人には及びもつかない。 開店祝いの席上「これからもおいしい料理を安く提供するよう頑張ります」と彼は謙虚に話した。友人たちはこのあいさつをうれしそうに聞き、相槌を打っていた。(07.3.26)