小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

82 山谷にて 「きぼうのいえ」を見る

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「東の山谷、西の釜が崎」という言葉がある。双方とも、いわゆる「ドヤ街」といわれる簡易宿泊所があり、日雇い労働者や路上生活者が多く住んでいる街である。

かつては、この街を舞台に、いろいろな話題があった。

山谷は台東区清川・日本堤・東浅草と荒川区南千住にかけて広がる地域の通称である。 日本経済の高度成長が始まった昭和30年代以降、建設労働者は常時足りない状況となり、山谷の日雇い労働者も全盛期を迎えた。

東京タワーや東京オリンピックのための高速道路建設などに、日雇労働者が果した貢献は大きい。しかし、その後の不況や高齢化によって彼らは働く機会が少なくなり、路上生活を強いられるようになったのである。

そんな街に「きぼうのいえ」というホスピスがある。末期がんやHIVなどにより、命の灯火が短くなった人々を看取る施設である。運営費用は生活保護費と寄付金で賄っている。

縁があって、この施設を見学した。施設を運営する山本雅基さんの案内で、4階建ての屋上にある礼拝堂兼霊安室から1階まで見て回った。6畳ほどの霊安室には15、6人分の遺骨が安置されている。 

部屋の真ん中にはマットが敷かれ、これからボランティアの指圧師が入所者の指圧をするところだと説明された。この部屋は亡くなった人の[お別れ会]もやる多目的利用部屋なのだ。食堂、浴室、個人の部屋を見せてもらった。こじんまりとしていて、清潔な施設である。

山本さんは、幼いときに、広場に捨てられていた子猫を拾って帰った。ところが、母親に「うちはアパート暮らしなので、飼えないから戻しておいで」といわれ、泣く泣く子猫を広場に戻したことが忘れられなかったという。

長じて、神父の道を志したが、途中で断念。山谷を歩いているときに、子供のころの子猫を捨てた原体験を思い出し、路上生活者を何とかしたいと「きぼうのいえ」を設立した。

しかし借金が多く、運営は厳しい。だが、ここで働くスタッフ、ボランティアが明るく入所者に接している姿を見ると、そんな苦労は吹き飛んでしまうらしい。ここで働く人々には、山本さんをはじめ確固たるモチベーション(目的意識)があるようだ。

最近、ある入所者が亡くなった。彼は亡くなる前に北陸地方の故郷に行ってみたいという希望を持っていた。付き添っていた看護師らが同行しその希望をかなえた。その看護師は、入所者がなくなるまで献身的に看護した。

亡くなる直前、2人は携帯電話のカメラで記念写真を撮ろうとした。看護師がシャッターを切ると、その腕の中で入所者は息を引き取ったそうだ。山本さんによると、こんな話がこの施設にはたくさん転がっている。

入所当時、社会に対し「捨て鉢」な気持ちを抱いていた人々も、次第に自分の人生を受け入れ、死を恐れることなく、慫慂として旅立つのだという。

「きぼうのいえ」が設立され、既に4年以上が経過し、これまでに45人を看取ったそうだ。現在の入所者は定員一杯の21人。入所待ちの人も多いという。山本さんは「高齢化社会が進むと独居老人が激増し、このような身寄りのない人のホスピスの必要性が高まるのではないか」と予測する。

厚生労働省は、山本さんらの声に耳を傾け、高齢化社会の福祉のあり方を考える必要があるのではないか。「きぼうのいえ」を見学してそんな感懐を抱いた。

  

(写真は、「きぼうのいえ」がある山谷の簡易宿泊街)