小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

65 南極の石 タロジロを思う

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わが家の床の間に、こぶしよりやや大きい南極の石が飾ってある。南極観測に行った友人からだいぶ以前にもらったものだ。 彼は故人になってしまい、長い間南極の石の存在も忘れいていた。先日お台場の船の科学館で「南極展」を見た際、そこに隕石や石が展示されていて、わが家の石のことを思い出した。 この南極展は昨年11月8日から開かれている。ちょうど50年前、日本初の南極観測船「宗谷」が出航し、わが国の南極観測の道筋をつけ、これを記念して、2月下旬まで南極展を開催しているのだという。宇宙飛行士の毛利さんらも最近昭和基地を訪問した。 友人は酒豪であり、猛烈に働いていた。南極に行ったころの彼は一番輝いていた時代だったかもしれない。南極のお土産は石と氷だった。氷でウイスキーの水割りを飲んだ。彼は、うれしそうに見つめていた。 日本の南極観測の黎明期は、苦難の時代だったといえよう。「宗谷」からしてそうだった。急きょ砕氷船としての体裁を整えて出発したものの、帰途は厚い氷に閉じ込められ、ソ連のオビ号に救助される。 ソ連は太平洋戦争末期に旧満州に侵攻し、多くの日本人をシベリアに抑留した怖い国という印象が当時の日本国民には強かったはずだ。しかし、オビ号が「宗谷」の危機を救ったことによって、そうした反ソ感情が薄れたことは間違いない。 第1次観測隊に同行した映像カメラマンによる記録映画のナレーションでも宗谷がオビ号によって氷の世界から脱出したときの様子を説明する際「世界のために」云々という表現を使っていた。 忘れてならないのは、第1次越冬隊とともに初めて昭和基地のあるオングル島で越冬し、荒天という事情でそのまま次の年も置き去りになった15頭のカラフト犬のことだ。 頑健なはずの15頭のうち第3次隊によって生きているのを発見されたのは「タロ、ジロ」の2頭だけだった。 2頭は日本に帰国し、映画にもなった。死後それぞれはく製標本になって、多くの人の目に触れた。 そのはく製標本は、ふだんはタロが北大植物園に、ジロは上野の国立科学博物館にあるが、今回はジロのみが展示されていた。 カラフト犬の大きさは子牛のようだ。ジロが標準かどうかは分からない。しかし、そのたくましさには感心する。 そうした犬でも15頭のうち2頭しか2回目の冬を越せなかった南極の自然の厳しさを思う。 南極は地球の健康の尺度を図るバロメーターだ。伝えられる南極の変化は心配だ。