小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

58 フセインの死刑に思う 何が正義か

イラクのかつての独裁者、フセイン元大統領の死刑が執行された。イラク戦争で、フセインを捕らえたアメリカを中心とする勝者は、彼を裁判にかけ、死刑にした。これが「正義なのだ」と言い切ることができないところに、問題の複雑さがある。

戦争終結後、いつの時代にあっても敗者の側の指導者は、殺されても仕方のない運命にある。それが戦争である。世界の多くの国は民主主義を標榜している。しかし、戦争はなくならないし、戦争という行為は「人が人を殺す」ことなのである。

太平洋戦争後、日本の指導者たちも極東軍事裁判の被告席に座った。この裁判に対し、異議を唱える声は少なくない。

戦争は、指導者や軍部だけでできることではない。その国の国民を巻き込み、多くの犠牲を伴うのだ。よって、敗戦という結果に終わった場合は、指導者の責任はとことん追及されるべきものなのだ。

だから、極東軍事裁判に対し批判があっても、覆ることはあり得ない。その意味でも、私たちは昭和天皇が、戦犯の席に座ることなく戦後を送ることができた背景を考えるべきだろう。

戦後61年、幸いにして日本は敗戦のショックから立ち直り、奇跡的に経済の高度成長を遂げた。その後、バブル経済とその崩壊を経験し、少しは落ち着いた世の中になったと思う。

だが、日本はアメリカ型社会を模倣しすぎているように感じる。その典型が「格差」であり「訴訟社会」である。

そうしたアメリカ型社会に反発するイスラム社会。フセインの死刑執行(処刑と同等)は2007年の世界情勢の流れに影響を及ぼすことは間違いない。時代は変わっても人間の営為には愚行が伴う。それが歴史なのである。