小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1980 聖書にも「明日のことは思い悩むな」地図で旅するイエスの足跡

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 友人には物知りがいる。昨日のブログを見たというある友人は、同じような言葉なら新約聖書にもある、と教えてくれた。早速、本棚奥から「日本聖書協会」発行の『新約聖書 詩編つき 新共同訳』を出してみた。それは「マタイによる福音書」(マタイ伝)6章の中の「思い悩むな」の最後(34節)に書かれている。古今東西、この精神は生きているのだ。    

  明日のことは思い悩むな。  明日のことは明日自らが思い悩む。  その日の苦労は、その日だけで十分である。 (以下は私の意訳=明日のことは心配するな。明日のことは明日に心配すればいい。一日の苦労はその日の一日で十分だ)  

 マタイ福音書は、誕生から宣教活動、受難(逮捕、十字架での磔、死)を経て復活に至るイエス・キリストの生涯をマタイの視点で描いたものといわれる。マタイはイエスの12人の弟子のうちの1人(福音書の筆者とは別という説もある)で、ローマ帝国の徴税人だった。イスラエル北部のガリラヤ湖で知られるガリラヤ地方のカペナウム(手元の聖書ではカファルナウムと表記)でイエスと出会い、弟子になる(マタイ伝9章9~13)。  

  徴税人は「ローマ政府あるいは領主(ガリラヤではヘロデ・アンティパス)から税金の取り立てを委託された役職。異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれ、『罪人』と同様に見なされた」(新約聖書・用語解説)。イエスは、大衆から忌み嫌われた徴税人のひとりのマタイを弟子にしたのだ。遠藤周作の『イエスの生涯』(新潮文庫)には「人々から馬鹿にされている収税人(徴税人)も弟子の一人に加えられ、人々が軽蔑する娼婦たちも決して拒絶されなかった」と書かれている。

『旅に出たくなる世界地図』でイスラエル周辺の地図を見る。カペナウムについては「山上の垂訓教会、五餅二魚教会などイエスの布教にゆかりの見どころが多い」という説明があった。このうち2つの教会は、イエスゆかりの地(垂訓教会はイエスが「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」などと群衆に語りかけたことを記念したもので、丘の上に1930年に建てられた8角形の教会。五餅二魚教会はパンと魚の奇跡の教会ともいわれ、イエスが5つのパンと2匹の魚を分け与えて5000人を満腹にさせたという奇跡が由来)にあり、遠藤の『イエスの生涯』にもそのエピソードが出ている。前述のガリラヤ湖について、遠藤は以下のように記している。美しい文章だ。

 《そこは一木一草だにない死海のほとり、不毛のユダの荒野と何という違いを持った風景であろう。人々は貧しく、みじめなのにここの風景はあまりに優しく、あまりに美しい。羊の群れが草をはみ柔らかな丘。湖に影をおとす高いユーカリの林。その林に風がわたる。野には黄色い菊やコクリコの赤い花が咲きみだれている。湖の遠い水面には漁師の舟が浮かんでいる。人間はかくも悲しいのに自然はかくもやさしい。》  

  イスラエルといえば、アメリカのトランプ前政権が国際的非難を無視して2018年5月、テルアビブにあったアメリカ大使館をエルサレムに移したこと、新型コロナワクチンの予防接種をいち早く始めたことが大きなニュースになった。周辺のトルコやエジプトは日本人観光客も多いが、この国を訪ねる人はそういないのではないか。イスラエルは、クリスチャンを除けば日本人には縁の薄い地域なのかもしれない。  

  前回のブログの最後に「ブッタの足跡をたどることも、私の気ままな想像の旅に加えたいと思う」と書いた。その前に、今回はイエスの足跡の一部をたどってみた。  

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  写真は、近所に咲いた「ロウバイの花」