小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1953 小説を読む楽しみ 開高健の眼力

 

IMG_1920.jpg

「小説は無益であるからこそ、貴重である。何もかもが、有効であり、有益であったならば、この世はもう空中分解してしまう」。ベトナム戦争取材記や釣り紀行で知られる作家の開高健(1930~89)の小説に対する見方((大阪市での教職員対象の講演録・28日付朝日より)だ。小説は無益だから読まないと公言する人もいるが、私は無益、有益を考えては読まない。まあ、面白ければいいし、暇を持て余すより、小説を読んだ方がいいと思うから、相変わらずランダムに選んだ本を読み続けている。    

 開高健は、ノンフィクションと小説の両方書いた。作家の佐藤正午は開高について、「見たものに執着して小説を書き続けた作家」(『小説の読み書き』岩波新書)という見方をしている。佐藤は同書で開高の一度だけの出会いの場面を書いている。開高の眼力の鋭さを示すエピソードといっていい。佐藤は作家として一本立ちする前は、長崎県佐世保駅前のホテルの受付係として働いていた。1980年11月12日、夕方の5時ごろ、佐藤が勤務するホテルのフロントに開高がやってきて、ルームナンバーを告げた。言われるまま佐藤がキーを渡そうとすると、「いや、違う」とつぶやき、別の番号を言い直した。  

 佐藤がキーを取り替えて渡すと、はっきりと伝わる声で意味のつかみにくい質問をした。「はい」と、いい加減に返事をすると、制服の胸元にある名札を見ながら「佐藤君」といい、「今夜、縫ってもらいなさい、そのポケット、2つとも」と付け加えたという。佐藤は書く。「そのあと彼がエレベーターホールへ歩み去る後姿はもう記憶になくて、そこまで、小説家が僕の目の前に立ち、ルームナンバーを言いまちがえたこと、そしてそのまちがいにもきづかない、やる気のない、反応のにぶい受付係の青年に、スボンのポケットに手を入れなくてすむように、2つとも母親に縫いつけてもらいなさいと忠告したこと、手帳のメモからはそれしかよみがえらない」と。  

 開高は佐藤のやる気のない応答から、客がいない時にズボンのポケットに手を突っ込んで、ぼぉーっと立っている姿を想像したのだろうか。佐藤は、開高と会った3年後の1983年に『永遠の1/2』ですばる文学賞を、2017年には『月の満ち欠け』で直木賞を受賞している。それは眼力鋭い開高にとっても、想像を超えたものだったに違いない。

「小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものか、と仮に答えを出す作業であろう。時代小説で、今日的状況をすべて掬い上げることは無理だが、そういう小説本来のはたらきという点では、現代小説を書く場合と少しも変るところがない、と私は考えている」。藤沢周平の小説観(『周平独言』中公新書)だ。人間を知るうえで、小説を読むことは、決して無益ではないということになる。  

 年々、本を読む速度が落ちている。集中力が衰えているから当然だ。一方で作家の表現法を味わい、行間を読む力は増しているはず、と思ったりする。それでも、原尞のハードボイルド小説『それまでの明日』(ハヤカワ文庫)のような本は、あまり時間をかけずに読んでしまう。私立探偵・沢崎が「事件」に巻き込まれる、沢崎シリーズの5作目だ。遅筆な原はこの小説を書くのに13年以上の歳月をかけたという。それを私はわずか数日で読んでしまった。私と同じように、そう時間をかけない読者は少なくないかもしれない。無益(かどうか、読者によって見方は異なるだろう)でも絶対に面白い本に出会うのは、無上の喜びなのだ。  

IMG_1900.jpg

 

IMG_1916.jpg

 

IMG_1956.JPG

 写真 雲の動きは見ていてあきない。(11月30日朝)