小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1849 福島の昆虫や野鳥に異変か「慢」の時代への警鐘

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 福島に住むジャーナリストの大先輩から届いた賀状に気になることが書かれていた。昨年からトンボが飛んでいない、コオロギの鳴き声も聞こえない、セミの声は弱々しい、ホタルの光も印象が薄い……。昆虫だけでなくスズメやツバメなどの野鳥の数も減ったように思う、というのである。間もなく東京電力福島原発事故から9年。福島に何かが起きているのだろうか。  

 大先輩は、福島の自然界の最近の実態に触れたあと、こんなふうに記している。「放射能の数値は懸命な除染活動もあり、自然放射能の数値範囲に入るようになりました。しかし9年という時の積み重ねの影響が、無防備の昆虫や野鳥に出てきたのかと心が重くなる。高齢による視力の衰え、聴力もおぼつかなくなったせいとは思いつつ、杞憂であることを祈りたい」  

 私も「杞憂」であってほしいと思う。日本人は「熱しやすく冷めやすい国民性」といわれ、あの3・11を忘れてしまった人は少なくないのではないか。だが、福島は原発事故以前の姿に戻ることはない。大先輩の賀状を読みながら、宮沢賢治が教え子に送った書簡で「慢」という言葉を記したことを思い出した。  

 私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。  

 この書簡は、自身を振り返っての賢治自身の反省と同時に、「『慢』がはびこりがちな時代への文明批評的な響きも感じられる」(高橋郁男『渚と修羅』コールサック社より)という。大先輩の不安は、健忘症ともいえる私たち多くの日本人の「慢」に対する警鐘ではないかと、私は思うのだ。角川漢和辞典」によると、慢は「忄」(こころ)と、音を示す「」曼」(ゆるい)とを合わせて、心がゆるんで、しまりがない、「おこたること」をあらわす、という意味だ。  

 最近のニュースでこの慢という言葉が当てはまると思うのは、保釈中の日産元会長のカルロス・ゴーン被告が、プライベート・ジェット機を乗り継いで、レバノンに逃亡したことだ。米軍特殊部隊出身者らによるスパイ映画もどきの逃亡劇が明らかになりつつあるが、日本の関係当局(飛び立った関西空港では、ゴーン被告が隠れたとされる音楽機器運搬に使うケースの検査もしなかったという)の慢が生んだ歴史的汚点といっていい。  

 以上のようなことを書いている途中、福島在住の知人で、ベトナムラオスなど山岳少数民族の教育環境に恵まれない子どもたちの支援活動をしている「シーエス・アール・スクエア」(輝く学校広場)というNPOを運営している宍戸仙助さんから電話があった。ベトナム北部の山岳少数民族の村で水力発電所のプロジェクトを計画しているということで、その声は弾んでいた。小学校の校長を定年退職してから取り組んだNPO活動。67歳の今も「慢」とは縁のない存在だ。