小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1778「はるかクナシリに」 国会議員の「戦争発言」と酒の二面性

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知床旅情」という歌を知っている人は多いだろう。作詞作曲した森繁久彌さんや加藤登紀子さんが歌い、私も好きな曲である。この歌の一番の詞の最後は「はるかクナシリに 白夜は明ける」となっている。「クナシリ」は北方領土(四島)のうちの国後島のことである。つい先日、国後島へのビザなし交流訪問団に参加していた丸山穂高という衆院議員が飲酒後、訪問団の団長に質問する形で「戦争で島を取り返すことに賛成か反対か」という発言をしていたことが明らかになり、所属していた日本維新の会から除名された。本人は国会議員はやめない意向だが、こんな議員がいる国会の劣化は激しいといっていい。

  この議員の発言について「失言」あるいは「大失言」という表現の報道を見た。失言は「言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。言いあやまり。過言」(広辞苑)という意味で、丸山議員の言葉は失言というよりも酒の勢いを借りての本音ではないかと私は思う。日本維新の会代表の松井大阪市長は「議員を辞職すべきだ」と語ったが、代表自ら辞職を勧告すべきではないか。(注記、その後の言動を見ていると、酒に関係なく、この人の考え方は危うい)

 「古代ギリシャ人は、アルコールの化学的成分やその神経組織に対する影響については無知だったが、人間の意識にあたえる効果については不可思議な何ものかがあると認めていた。何杯かのワインによって“途方もない”喜悦に体をほてらせ、平凡さ、偶然、必滅とかを感じなくなるプルースト(筆者注『失われた時を求めて』の作者ばりの感覚を得ることができる。さらに何杯かのグラスが、人格をある奇怪な内的境界の外へ押しやり、破壊的な力のなすがままにさせるのだ。これらの力をギリシャ人は、復讐者ディオニソスギリシャ神話の酒の神のこと)に象徴化した」

  これは、コリン・ウィルソンが『わが酒の讃歌』(徳間書店)の中で、酒の二面性(ジキルとハイド)について述べたものだ。コリン・ウィルソン流にいえば、丸山議員は酒の力を借りて人格をある奇怪な内的境界の外へ押しやり、破壊的な力のなすがままに、戦争発言をしたのだろうか。クラウゼビッツは『戦争論』で「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」と述べている。異なる手段というのは武力のことであり、多大な人的損害を伴うし、言うまでもなく日本は憲法(9条)で「戦争の放棄」を規定している。

  新聞報道によると、丸山議員(Q)と団長(A)の間では以下のようなやりとりがあったという。

 Q「団長は戦争でこの島を取り返すことは賛成ですか、反対ですか」

 A「戦争で?」

 Q「ロシアが混乱しているときに取り返すのはオッケーですか」

 A「いや、戦争なんて言葉は使いたくないです」

 Q「でも取り返せないですよね」

 A「いや、戦争はすべきではない」

 Q「戦争しないとどうしようもなくないですか」

 A「いや、戦争は必要ないです」

 どう見ても、団長の返事が大人の常識で正しい。それが分からないのだから、この人は国会議員失格だ。ちなみに、知床旅情の詞の中に出てくる「白夜」(夜になっても明るい状態で、北欧などの夏に起きる現象)は知床や北方四島では出現しない。なぜ、このような詞になったのかは不明だ。戦前、NHKアナウンサーとして旧満州新京(現在の長春)で勤務し、敗戦後ソ連軍に連行された経験を持つ森繁久彌さんは、北方四島返還への願いを込めながら、この一節を書いたのかもしれない。

  写真は遊歩道の満開になったトチノキマロニエ)の花。