小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1777 小説『俺だけを愛していると言ってくれ』 一時代を駆け抜けた男への挽歌

画像 言うまでもなく、人生は出会いと別れの繰り返しである。長い人生の旅を続けていると、邂逅の喜び、悲しみに鈍感になる。とはいえ、誰もが「別れ」は使いたくない言葉のはずだ。友人が書いた中編小説『俺だけを愛していると言ってくれ』(菅野ゆきえ著・文芸社)を読んだ。充実した人生を送ってきたはずの夫が難病に侵され、妻を苦しめる。壮絶な病気との闘いをメーンにした愛の物語だ。日本のあるいは世界のどこかで、このような現実に直面している人たちが少なくないだろう。悲しい結末だ。この物語には、平穏な生活を取り戻した妻の心に去来するものがちりばめられている。
 
 夫(山元智史)と妻(洋子)が交互に語り手となり、それぞれの視点で描かれている。「若年性レビー小体型認知症」という難病との闘いがテーマの一つになっており、当然ではあるが、視点は大きな隔たりがある。それが結果的に緊張感が伴い、今日性の高い作品として読む者を惹きつける。
 
 物語は電機メーカーの営業マンとして生きてきた智史が医師から認知症だと宣告される場面から始まる。58歳になったころから智史は鍵やカードを頻繁になくし、趣味のテニスもコートの場所と時間を間違えたりする。会社では決裁文書を放置し、取引先との面談予定を失念するなど失敗を繰り返すようになったため、市民病院で診察を受けたのだ。
 
 認知症について辞書には「成人後期に病的な知能低下が起きる状態。いわゆる呆け・物忘れ、徘徊などの行動を起こす」(広辞苑)と載っている。智史の病名のレビー小体型認知症は、「アルツハイマー病、脳血管性認知症に次いで多い疾患で、パーキンソン病黒質などに現れるレビー小体という変化が大脳皮質に多発し、進行性の認知機能低下を示す」(家庭医学大事典)のが特徴だ。「人にもよりますが、普通の物忘れに加えて『幻視』や『幻聴』といった症状が現れる特徴がありますね」という作品の中の医師の説明通り、智史にもそうした症状が顕著になる。
 
 こうして智史は定年前に早期退職し、洋子と海外旅行もする。そして2年が過ぎ、医師からの忠告で車の運転をやめた智史の替わりに洋子が運転免許を取るために教習所に通う。このころから病気は確実に智史を蝕んでいく。洋子が教官と浮気をしているという幻聴から暴力を振るいアルコールにも溺れる。さらに洋子が学生時代に交際していた渡辺裕一と不倫関係にあると妄想し、洋子の首を絞めて殺そうとして警察に連行される。(智史と洋子は70年代初めの10・21国際反戦デーのデモの中で知り合った。大手労組の委員長の紹介だった。智史は労組の青年部長、洋子は学生で、急速に近づいた2人は智史の青森への転勤をきっかけに結婚する。洋子は大学を中途退学して智史に嫁いだ)
 
 この事件後、智史は精神病院へ入院し、退院後は介護付き有料老人ホームへの入所、グループホームでの生活という家族とは切り離された時間を送り、重症の糖尿病になり69年の生涯を閉じる。あとがきにもあるように、描かれている事象はほとんどが著者の周辺での出来事に基づいているという。認知症という病に侵され、時に人間性が変わってしまうこと、病院や施設の患者や入所者家族の事情を斟酌しない様々な決まり事など、現在の福祉の在り方を問う実態も含まれている。
 
 著者が記すように、この作品の読み方は幾通りかある。「元企業戦士の闘病記」「無名の男の追悼記」そして「ある一組の夫婦の哀しい愛の記録」だという。私はこの3つに加えて、これは妻から夫への「挽歌」(死者を哀悼する詩歌)ではないかと思った。日本の高度経済成長末期から働き詰めに働き、家族を愛した男が会社人生のゴール直前で難病に侵され、最愛の妻に暴力を振るうなど人間としての尊厳が奪われていく。そして死が待っている。何とも虚しく、悲しい物語だが、現実にこのような家族のストーリーはそう珍しくない。
 
 最近、私の元同僚もパーキンソン病との闘いを終えて家族のもとを去ったばかりである。元同僚には、もう少し頑張って生きてほしかったと願う半面、彼が苦しみから解放されたことに安堵したことも間違いない。それは洋子にも共通する思いかもしれない。それを私は、挽歌という言葉に託したい。
 
 著者にとって、この本は処女作だという。主人公2人の心理状態の描き方だけでなく風景・情景描写も冴えている。ストーリー展開も的確であり、伸びしろの豊かさを感じさせる作品に仕上がっている。現在も仕事を続けながら早朝の時間帯に執筆する日々を送る著者は、新たな作品に取り組んでいるに違いない。次に長編の作品を読みたいと思うのは私だけではないはずだ。達意の文章の書き手が新たに誕生した、というのが読後感である。
 
「人は生き、愛し、苦しみ、亡くなる」(文芸評論家・饗庭孝男
(この本の発売は6月1日、amazonでは5月20日から予約販売)
 
 挽歌に関する拙ブログ↓