小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1742 沖縄の正史と 稗史 続・首里の坂道にて(2)

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 歴史には正史と 稗史(はいし)・外史がある。正史は権力を持った側が自分の都合のいいように書いたといっていい。権力側=正義、反権力側=悪――という構図である。その構図が真実かどうかは分からない。普天間基地移転と名護市辺野古への新基地建設問題は、後世の人にはどのように受け止められるのだろう。  

 世界遺産に指定されている座喜味城(ざきみぐすく・沖縄県中頭郡読谷村)跡に行き、琉球正史の「護佐丸・阿麻和利の乱」を考えた。この城は、沖縄の歴史上、築城の名人といわれた護佐丸 盛春(生年不詳 - 1458年)によって造られた城で、東シナ海を望む標高120メートルの、国頭マージといわれる赤土の軟弱地盤に建っていた。  

 1458年、尚泰久王治世下の琉球王国で内乱が発生した。王位に就こうという野心を持った勝連城(現在のうるま市)の按司あじ=首長)阿麻和利が、尚王の忠臣といわれた中城城の按司・護佐丸を「戦の準備をしている、これは尚王への謀反だ」と讒言(ざんげん・他人を陥れようと、事実を曲げた告げ口をすること)、これを信じた尚王は阿麻和利に護佐丸追討を指示、阿麻和利の軍勢は護佐丸の拠点、中城城に押し寄せる。護佐丸は琉球の制覇の野望を持つ阿麻和利を監視し、いつでも対抗できるよう訓練を続けていたといわれる。  

 敵の阿麻和利軍に「王府の旗」を見た護佐丸は、王府に矢を向けることはできないと長男、次男とともに自害した。忠臣たるゆえんの悲劇だった。乳飲み子だった3男だけは乳母の手で脱出し、国吉比屋(くによしぬひや)の家にかくまわれ、成人し、尚王家に仕える。  

 ちなみに尚泰久王の妻は護佐丸の娘で、尚泰久王の娘(護佐丸の孫)の百度踏揚(ももとふみあがり)は阿麻和利の妻となったから、3人は縁戚関係にあった。中城城を落とした阿麻和利は首里城の尚王も攻めようとする。だが、百度踏揚が従者越来賢雄(ごえくけんゆう)に背負われて、勝連城を抜け出して首里に通報、阿麻和利は王軍に討ち取られたという。越来賢雄はこの功で百度踏揚を妻にする。

 国吉比屋の墓は、私が滞在している首里金城町の公民館広場(地区の人たちがラジオ体操をやっている)の隣にある。周辺は首里に滞在中、毎日の散歩コースになっている。護佐丸は悲劇的生涯を閉じた。今も、「護佐丸・阿麻和利の乱」は謎が多く、うるま市では阿麻和利は名君と伝えられている。2人が築城したといわれる城跡(今帰仁、座喜味、中城=護佐丸、勝連=阿麻和利)はいま世界遺産琉球王国のグスク及び関連遺産群」に所属しているものの、戦後に再建された首里城の賑わいとは異なり、静かなたたずまいを維持している。

 城跡からは東シナ海が見える。この城から護佐丸は中城城(標高160メートル)に移り、逆賊と見られ、死を迎えた。私はその無念さを思いながら、座喜味城跡の坂道を下った。(続く)

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 写真1、座喜味城跡、2、那覇末吉宮

 1651 坂の街首里にて(1) 歴史遺産とともに