小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1718 花野を見ながら 今は風物詩のセイタカアワダチソウ

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 6時前に調整池周りの遊歩道を歩いていると、黄色い花野(花畑)が目の前に広がっていた。この季節の風物詩ともなった帰化植物セイタカアワダチソウが満開を迎えたのだ。朝日俳壇に「逝きし子と手をつなぎゆく花野かな」(尼崎市・ほりもとちか)という句があった。さみしい句である。私も満開のセイタカアワダチソウの花野を見ながら、今は亡き犬のことを思った。  

 朝日俳壇でこの句を選んだ大串章さんは「花野を歩いていると、亡子の手の感触がよみがえる。心にしみる句」と評した。母の思いが伝わる句である。母と子が手をつないで、お花畑をのんびりと歩いている。小さな子は母親に「あの花の名前は?」「私はこの花が好き」というようなことを言っているのかもしれない。そんな幸せな日は失われてしまった。だが、懸命に母の手を頼りにする小さな手の感触は、年月が過ぎても忘れることはできない。この句からはそんな情景を想起する。  

 私の散歩コースの調整池の遊歩道は今の季節、朝方には霧や靄が発生する。歩いているうち次第にそれらが消え、調整池と周辺の雑草地帯が鮮明に見える。そして、今朝はセイタカアワダチソウの花が黄色い絨毯のように咲き誇っていた。それを見た私は「朝靄が晴れて眩しき花野かな」なんて句を口走った。目の前を15歳になるというラブラドールレトリーバーが足をふらつかせながら歩いている。この犬種にしては長生きだ。しかし、目の前の老犬の姿は痛ましく、わが家で飼っていたゴールデンレトリーバーのありし日の姿が脳裏に蘇った。  

 わがやの犬はhanaといい、5年前の7月30日に生を終えた。11歳になったばかりだった。朝は私が、夕方は妻が調整池の遊歩道を散歩させるのが日課だったから、どうしてもこの道を散歩しているとhanaのことを思い出してしまうのだ。早朝に誰もいないとき、リードを外してやる。最初のうちは大人しく私の近くを歩いている。だが、そのうち急に遊歩道を外れ、調整池の斜面の雑草地帯に向かって走っていく。さらに仰向けになって背中を地面につけてごろごろする。戻ってくると、強烈な悪臭がする。そこにあった犬の糞を体にくっつけたのだった。これは一つの例だが、この犬の思い出は尽きない。  

 私と同じ時間帯に会う人は以前、大型犬のボルゾイを飼っていたが、この犬もわが家の犬の後を追うように死んでしまった。だから、この人も私と同様、今は一人で歩いている。この人の姿からは、愛するものを失った孤独を感じる。この人も私同様、時々亡きボルゾイに何かを語りかけているのかもしれない。

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