1682 夢二の逆転の発想 「宵待草」の花が咲く
今夏も近所の調整池を周る遊歩道に、月見草の花が咲いた。早朝の散歩で黄色い、可憐な印象の花を見た。この花の正式名称はアカバナ科のマツヨイグサで、南米チリ原産の帰化植物だそうだ。江戸時代に渡来し、野生化したものだが、太宰治の『富嶽百景』という私小説の中にもこの花が出てくる。太宰が「富士には、月見草がよく似合ふ」と書くように、この花はいつの間にか日本の風景の中に溶け込んだようだ。
月見草は、夕方に開花することが名前の由来という。待宵草という呼び方もあり、以前のブログにも書いている通り、大正ロマンを代表する画家(美人画)で詩人竹久夢二の詩による「宵待草」(よいまちぐさ)という名曲がある。文芸評論家杉本秀太郎は「『宵待草』は『待宵草』を転倒させて、勝手に夢二が作り出した名』(花ごよみ・講談社学術文庫)と説明している。だが、この歌が一世を風靡したためか宵待草という言葉も辞書には紹介されており、地下に眠る夢二も苦笑いしているかもしれない。
手元の辞典には「宵待草」について、次のように載っている。「オオマツヨイグサの異称」(広辞苑・岩波書店)、「マツヨイグサの別称」(明鏡国語辞典・大修館書店)、「オオマツヨイグサ・マツヨイグサの異称→つきみそう」(新明解国語辞典・三省堂)、「オオマツヨイグサの別名」(デジタル大辞泉・小学館)、「まつよいぐさの別称」(国語辞典・旺文社)
ちなみに、デジタル大辞泉などによると、「宵待草」は夢二の三行詩で、1913(大正2)年刊行の絵入りの詩集「どんたく」に収録されている。名曲といわれる歌の方は、夢二の詩(三行詩を基したもの)にバイオリン奏者の多忠亮(おおのただすけ)が曲をつけ、1917(大正6)年に発表された。翌年楽譜が出版されると、全国に知られる歌になったという。
のちに、詩人で作詞家の西条八十によって2番の歌詞が付けられた。夢二死去(1934年9月)後の1938年に制作された「宵待草」という映画の主題歌として追加されたものだ。ただ歌詞の中にある「宵待草の花が散る」は、間違いだ(この花は散らずに萎んでいく)という指摘があり、「宵待草の花のつゆ」と手直しされた経緯があるそうだ。
多くの歌手によって歌われているが、面白いのは1番だけもの、手直し前のもの、手直し後のものと3種類の歌われ方があることだ。現在は1番だけが歌われることが多いようで、日本の名曲を収録した『日本のうた300、やすらぎの世界』(講談社+α文庫)にも1番だけの歌が紹介されている。
「宵待草」(竹久夢二詩)
待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな
※2番(西条八十詩)
暮れて河原に星一つ 宵待草の花が散る 更けては風も泣くさうな(手直し前)
暮れて河原に星一つ 宵待草の花のつゆ 更けては風も泣くさうな(手直し後)
※夢二の原詩
遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな
そういえば、プロ野球の往年の名選手で名監督、野村克也は600本の本塁打を打った際、記者団に「ON(王貞治と長嶋茂雄)はヒマワリなら、おれは月見草」と語ったことがよく知られている。ONは人気選手でいつも注目されているのに、自身はあまり観衆も来ない球場で寂しくやっている。それをヒマワリと月見草にたとえて話したのだという。
野村は旧京都府網野町(現在の京丹後市)出身で、子どものころから地味な花である月見草を身近に感じていて、こんなうまい比喩を考えたのだろう。私も野村同様、ヒマワリより月見草の方が気に入っている。