小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1651 坂の街首里にて(1) 歴史遺産とともに

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首里は城下町なので、道が入り組んでいるんです」険しい坂道を歩いていたら、地元の人に声を掛けられた。ここ数日、沖縄・那覇市の高台にある首里城近くにいる。本当に坂の多い街である。近所の崎山公園に行くと、那覇の街が一望でき、白いビル群が目に飛び込んでくる。  

 朝、散歩をしていると公民館の広場があった。10人に満たない人たちがラジオ体操を始めるところで、挨拶をして仲間に入れてもらった。終わって休憩していると、「史跡巡りがありますよ。一緒に歩きませんか」と誘われ、参加した。周辺の自治会や小学校の保護者会などが企画した「3世代交流史跡巡り」という催しだ。

 飛び入りの私たちを含めて、集合場所の崎山公園(標高130メートル)広場には約120人が集まった。公園周辺には多くの歴史遺産が存在しているらしい。  

 ボランティアから公園にある御茶屋御殿石造獅子(王府の別邸にあった石造りの獅子)と「雨乞御嶽(雨乞嶽)」(あまごいうたき、あまごいだけ=干ばつ時に王が雨乞いをする場所)について説明を聞いた後、坂を下り始める。次の目的地は国吉比屋(くによしぬひや)、儀間真常(ぎましんじょう)といった歴史上の人物の墓だった。  

 国吉はこの名字の祖らしく、15世紀の「護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱」の際に名前が出てくるという。1458年、尚泰久王治世下の琉球王国で発生した内乱である。正史では、王位に就こうという野心を持った勝連城の按司あじ=首長)・阿麻和利が忠臣、中城城の按司・護佐丸を討った後、首里城も攻めようとしたため、反対に討ち取られたとされる事件だ。阿麻和利は逆臣ではなく英雄だったという説もあり、勝連城のあるうるま市では、阿麻和利を主人公にした組踊も演じられ、かつて東京で上演された際、足を運んだことを思い出した。  

 国吉はこの戦いの際、逃げ延びた護佐丸の子(三男)をかくまって養育した忠節の人というのが、ガイドの説明だった。儀間の方は琉球薩摩藩支配下になった後、薩摩から甘藷(サツマイモ)を持ち帰り、沖縄に普及させたほか、木綿、黒糖を沖縄で生産することに尽力し、「沖縄産業の恩人」といわれている偉人だそうだ。それにしても沖縄の墓は大きい。東京の狭い住宅よりも敷地が広い墓は少なくない。いま、沖縄は清明祭(シーミー)の季節だ。ごちそうを持ち寄り、墓の前でひと時を過ごす家族の姿が珍しくはない。国吉、儀間家の子孫もシーミーを終えたかもしれない。  

 首里は坂の街と書いた通り、史跡めぐりはさらに石畳の坂を下りていく。このような急な坂を下り続けたことは、昨年9月に右足のけがをして以来、初めてだった。それでも私の足は何とか持ちこたえている。最終地点は金城ダムだった。氾濫が頻発した安里川に洪水調整用のダムを造ったのだ。周辺の斜面には夥しい墓がある。ダム近くで生まれ育った地元の人は「まだダムがない子どものころ、夜になると人魂が飛んでいた。戦争で亡くなった人たちの遺体がそのままになっていたからでしょう」と、悲しい思い出話をしてくれた。  

 かつて首里城の地下には旧日本軍第32軍司令部壕があった。太平洋戦争末期、首里城は米軍の空襲で消滅したが、戦後に再生した歴史がある。夜、さまよえる魂を受け継いだかのように、数匹の蛍が飛んでいるのを見た。(続く)

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写真 1、崎山公園から見た那覇市内 2、御茶屋御殿石造獅子 3、沖縄産業の恩人、儀間真常の墓 4、金城ダム 5、旧日本軍第32軍司令部壕跡

143 勝連の城主阿麻和利 世界遺産の地で英傑を思う

392 躍動する子どもたち 沖縄の組踊・肝高の阿麻和利

504 肝高の阿麻和利・東京公演  ありがとう沖縄の子ら

1538 日米和解から取り残された沖縄 首里城に思う