小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1620 だれもが人類という大きな木の一部 ルーツについて

画像

「ルーツ」という言葉が一般化したのは、アフリカ系アメリカ人であるアレックス・ヘイリー(1921-1992)の同名の小説がベストセラーになり、これを原作にしたテレビドラマが大ヒットしたことが挙げられる。「根、根元、大本」のことで、「さかのぼれる限りの、その人(民族など)の祖先(の発祥の地)」(三省堂新明解国語辞典第7版)を意味する。以前、自分のルーツを調べることが流行った時期があったが、現在はあまり聞かなくなった。

  自分のルーツについて書こうと思ったのは、今月24日夜のNHKテレビで放映された「ファミリ・ヒストリー」という番組で、偶然私の生家が取り上げられたためだ。この番組は著名人のルーツを探るもので、今回は歌手の石井竜也米米CLUB)さんの家族の歴史が取り上げられた。

 石井さんの実家は茨城県北部の北茨城市大津町にある。この町の五浦にはかつて美術運動家・思想家の岡倉天心がアトリエを持ち、天心に心酔する横山大観など著名な画家たちが集まった。現在、海岸近くに茨城県岡倉天心美術館があることで知られている。  

 石井さんの家系を遡ると、初代は石井靏次(つるじ)といい竜也さんの曽祖父になる。靏次は茨城県境にある福島県東白川郡矢祭町金沢地区で石井長左エ門義隆、エツ夫妻の次男として、慶応2(1866)年6月16日に生まれた。幕末であり、京都の旅館寺田屋坂本龍馬が暗殺されたのは靏次が生まれる5カ月前の1月23日のことだ。この2年後、戊辰戦争を経て明治維新となる。長左エ門の長男は石井儀助といい、私の曽祖父である。儀助は「石井商會」という米問屋を営む一方、神社の宮司も務めていた。石井家は名字帯刀を許された名主の家柄で、江戸時代までは代々、長子は長左エ門を名乗ったのだという。  

 成長した靏次は文学を志し、儒学者の室桜関(平藩の藩校教授、むろおうかん)が主宰していた平の培根塾という私塾で学ぶ。しかし、体を壊した靏次は実家に戻り、儀助が営んでいた米問屋を手伝った。水戸近郊の女性と結婚、長男が生まれた後、茨城の大津町に移り、ここでも儀助の仕事に協力し高額納税者になるほどだったという。  

 しかし、大正9(1920)年の米相場暴落によって儀助の石井商會は高利の金まで借りて経営破綻、靏次はやむなく和菓子屋「石井屋」を立ち上げる。その時、儀助は自分の失敗を教訓として「大きな商売はやるな」と弟に伝えたという。その後、この和菓子屋は大津の町で長く営まれ続ける。家系は靏次→友則→昭雄→そして竜也さんである(番組では母系についても紹介した)。和菓子屋は昭雄さんが高齢になり、竜也さんも音楽の道を歩んだことから、2005(平成17)年に廃業する。竜也さんのバンド名、米米CLUBの由来は私には分からないが、曽祖父の仕事と偶然にも重なるのは人生の妙を感じる。  

 一方、私の方の家系は儀助→蹇太(けんた・祖父)→克雄(よしお・父)→博(私の兄)と続くが、儀助の事業失敗で傾いた家を継いだ蹇太と克雄は若くしてこの世を去り(蹇太は病死、克雄は太平洋戦争で戦死)、祖母と母は労苦の多い人生を送った。しかし、祖母は90歳で亡くなるまで新聞を読み、毎日外で人に会って陽気に話し、世の中のことに好奇心を持ち続けた。そのためか「東(私の家のこと。地区の一番東にあるため、そう呼ばれていた)のばっぱちゃんは外務大臣みたいだ」と言っていて人気があったという。対照的に寡黙だった母は、晩年病気で苦しんだが、それでも亡くなる直前、私たち子どもに「幸せな人生だった」と話してくれたことを覚えている。  

 現在、生家の土蔵の中には昔の史料が残っていて、紋付袴姿で帯刀した儀助と靏次の父長左衛門が描かれた掛け軸もある。靏次から儀助に宛てた筆による手紙も何通か残っているが、儀助や靏次にとって、後年このような形で自分たちの人生に光が当てられようとは、思ってもいなかっただろう。  

 人類の歴史は約20万年だという。その原点はアフリカにあるというのが最近の定説である。この歴史からみると、個々人のルーツは小さな点みたいなものだ。しかし、それぞれに物語があり、兄弟姉妹から枝分かれして新しい家族が誕生し、さらにそれが繰り返されていく。その意味では「だれもが人類という大きな木の一部であり、互いとつながっている」(英国の科学者アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かなる旅路』)のだ。石井竜也さんのルーツを探る番組を見て、そう思った。

画像

 写真 1、木のあるヨーロッパの風景 2、私の生家