小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1613 健脚への挑戦 6・4キロを歩くことの意味

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「今年は『健脚』を取り戻すことが目標です。昨年9月に右足の大腿四頭筋断裂というけがで約1カ月入院、年末までリハビリの日々を送りました。入院生活で『健脚』は身も心も健全にしてくれる大事な要素と感じました」

 今年の年賀状のあいさつ文で、このようなことを書いた。大学箱根駅伝の往路をテレビで見た後、この目標を実現させる試みとして、久しぶりに街中にある遊歩道を歩いた。その結果、1時間以上休むことなく歩き続けることができたから、ちょっぴりだが自信がついた。

  私の住む街には、「四季の道」という名前が付いた1周6・4キロの遊歩道がある。春夏秋冬、それぞれの名前の付いた道の総称で、春の道は桜(ソメイヨシノ)、夏の道はケヤキ、秋の道はイチョウ、冬の道はコグマササ――という具合に、それぞれの季節に合わせた樹木が街路樹として植えられている。今は冬枯れの季節で、木々の緑を楽しむことはできないが、冬の寒さの中でも散歩やジョギングをする人が絶えない。

  私も以前は日課のようにこの遊歩道を1周した時期がある。犬を連れたときは1時間10分、一人の時には1時間を切ったこともあるが、平均すれば1時間4、5分というタイムだった。今日はけがをしたあと、この1周散歩に初挑戦だった。速足で歩いている人たちが、次々に追い越して行くのを我慢して見送る。さらに、時々立ち止まって写真撮影をしながらの散歩だったから、1周するのに要した時間は1時間14分だった。写真撮影の時間を引けば1時間10分程度という結果で、かつてわが家の飼い犬ゴールデンレトリーバーと一緒に歩いた時間とほぼ一緒だった。家にたどり着くと疲労感が強かった。だが、ここまで復活したことに満足した。

  人はなぜ歩くのだろう。この遊歩道を歩いている人たちの大半は健康のためなのかもしれないし、私のようにけがからの回復という目的を持つ者もいる。無季自由律俳句(句の中に季語を入れない)で知られる種田山頭火は、放浪の俳人といわれた。生涯「行乞放浪」という、とめどなく歩く旅を続けた山頭火は、「歩々到着」という短い文を書いている(『山頭火句集=ちくま文庫)。

  山頭火の次の言葉は意味が深い。

 《私は歩いた。歩きつづけた。歩きたかったから、いや歩かなければならなかったから、いやいや歩かずにはゐられなかったから、歩いたのである。歩きつづけてゐるのである。きのふも歩いた、けふも歩いた、あすも歩かなければならない、あさってもまた。――

 木の茅草の芽歩きつづける

 はてもない旅のつくつくぼうし

 けふはけふの道のたんぽぽさいた

 どうしようもないワタシが歩いてをる》

 

 そう、歩くことは、人にとってそれぞれ大きな意味があるのだ。