小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1596 病室は高齢化社会の縮図 わが入院記

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 足のひざ付近のけがで26日間にわたって、入院する羽目になった。当初、手術から1週間程度で退院できるのではないかという医師の話だった。だが、実際に患部を開いてみると傷は大きく、結果的に1カ月近い入院生活を送らざるを得なかった。入院した4人部屋はカーテンで仕切られているが、隣の患者の様子は否応なく伝わってきた。その実態は、私には高齢化社会の縮図のように思えた。  

 私の症状は大腿四頭筋断裂というもので、右ひざ周辺を縦に15センチほど縫合する手術を受けた。術後、1週間は静脈血栓塞栓症という鬱血予防のために弾性ストッキングを履き、さらに寝ている間は空気式圧迫装置(ヒートポンプ)を足につけていた。飛行機内などで、長時間同じ姿勢を取り続けていると、エコノミークラス症候群という命にもかかわる症状になる恐れがあるが、寝たきりの患者もその危険があり、ストッキングと装置は必要なのだという。  

 それだけでなく、足を守るため「FX軽度屈曲位膝関節支持帯」というひざサポーターも付けているから、身動きができない。これらはかなり鬱陶しく、夜よく眠ることができない。ただ、我慢するだけなのである。術後3日間は痛み止めの点滴を右足の鼠径部にしていて、トイレに行けない。小水は容器を利用するのだが、尿意を催してもなかなか出ないのはつらいものだった。  

 理学療法士によるリハビリは、手術翌日から始まった。1日目はベッドにきてもらい、2日目からはリハビリ室に車いすで通う。その後、松葉杖を持たされ、さらに退院近くになると、自力で歩く訓練を受けた。手術直後は、けがをした右足は全く上がらなかったが、2、3日すると、次第に動くようになった。平日3回、土日・祝日2回のリハビリ(1回あたり35分~40分)が、励みになった。理学療法士が患者の私たちの症状に合わせてリハビリの計画を立て、献身的に取り組んでくれた。これまで私には縁がない分野の人たちだったが、これからもしばらくはお付き合いを続けることになる。

 当初、病院食には慣れなかった。だが、入院生活が続くうちに食事が待ち遠しくなった。朝7時半、昼12時、夜6時の3回で、外科手術の私の場合の1日当たりの1700kcal(うちごはんは1食150グラム)と多めだった。ごはんとみそ汁がほとんどあり、おかずが1、2品ついていた。ある日のメニューは朝食・がんもの煮物、昼食・八宝菜、夕食・カレイの竜田揚げといった具合である。入院が長い患者には夕食メニューについて事前にAとBから選んでもらう仕組みだった。アルコールなしの生活が続いたため、私の体重は入院前より数キロ減った(退院後、元に戻ってしまった)。  

 病室(4人部屋)は入れ替わりが激しく、数えてみたら、私以外で10人が出たり入ったりした。うち30代2人と40代1人で、ほか7人は高齢者だった。これらの人たちは自分で歩ける人が1人、車いすを使える2人、寝たきりが4人という構成だった。寝たきり状態の人たちは始終ナースコールを押し、看護師や看護助手が駆けつける。下の始末をしてもらうため体を動かす際には痛い、痛いという声が聞こえてきた。  

 私の反対側のベッドの人は、自力では動くことができないのに、夜になって尿意を催したのか、無意識にベッドを降りようとして、床に転落してしまった。消灯時間(午後9時)直後、イヤホンをつけテレビのニュースを見ていた私はそれに気がつかなかった。だが、しばらくして、イヤホンをつけていた耳にも「お母さん、お母さん」と叫ぶ声を聞こえてきた。松葉杖を取って立ち上がり、隣のカーテンを開けてみると、ベッド脇の床に80歳くらいの男性が倒れていた。慌てて廊下に出て看護師を呼ぶ私。大事に至らなかったが、老人は看護師から「こんなことをすると、ベッドに縛られてしまいますよ」と注意されていた。  

 一方、隣のベッドの人は、かなりひどいイビキをかく。それだけでなく、時々大きな声で叫び声をあげる。悪夢にうなされているようだった。昼間は非常に穏やかで、看護師らとの会話も丁寧なのだが、夜になると一変するのである。この人が私より数日前に退院するまで、耳栓を利用し続けた。  

 カーテンがあるから、患者たちの顔はよく分からない。しかし、会話は聞こえる(携帯は禁止なのだが、守らない人も複数いた)から、その人がどんな境遇か、分かってしまう。その話の内容は、一様に幸福や希望とは縁遠い。さびしい限りである。整形外科中心の病院であるため、同じ時期に入院した若者はほとんどがかなり早い段階で退院していく。一方で寝たきり状態にある高齢者の回復は遅く、退院への見通しは遠い。つらいことだが、これが現実なのである。  

 お世話になった理学療法士は、若い人がほとんどだった。出身も地元の千葉をはじめ東京や北海道、青森、秋田とさまざまだ。私の担当者は熊本県天草市出身と聞いた。彼はこの病院で腕を磨いたあと熊本に戻り、地元の人たちのために尽くしたいという希望を持っていることを話してくれた。私は、将来彼が熊本にとって、かけがえのない療法士になることを願いながら、退院直前まで感謝しつつリハビリを受け続けた。

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写真 沖縄・与那国島の風景(別名・どぅなんちまともいわれる)