小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1550 巡ってきた6年目の春 共感呼ぶある愛の詩

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 朝、散歩をしていたら、調整池の森からウグイスの鳴き声が聞こえてきた。自然界は確実に春へと歩みを続けている。だが、3月は心が弾まない。それは私だけではないだろう。言うまでもなく、6年前の東日本大震災がその原因である。

 「三月は鼻に微風を送る山」(森澄雄)という句がある。山本健吉は「3月到来の歓び方がユーモラスだ。春の微かな香りを、鼻が知っている」(『句歌歳時記』新潮文庫)と評している。本来、3月は冬から春へのバトンの受け渡しをする、交代の季節である。それは森の句のように、喜びをもって迎えていいはずなのだ。だが、あの大震災はその喜びを多くの人から奪ってしまった。原発事故の福島を筆頭に故郷を離れて暮らす避難者は、いまも12万3千人(復興庁調べ、ことし2月28日現在)に達している。東日本大震災の政府主催追悼式で安倍首相は式辞で「原発事故」という言葉を使わなかった。これに対し内堀福島県知事が違和感を覚えたと批判した。当然である。

 「時の流れが速い」あるいは「時間が止まったままだ」という言葉が使われることが多い。人間の感覚がこれらの言葉を生んだものだが、時の流れは本来不変である。太古から、時間は同じ速度で進んでいる。だが、「東日本大震災からもう6年も過ぎたのか」という感懐を抱く人がいる一方で、「あの日から時間は止まったまま」という人たちも少なくないのが現実なのである。

  岩手県の地方紙、岩手日報は3月11日朝刊に「最後だとわかっていたなら」という詩を掲載した。2001年9月1日に発生したアメリ同時多発テロの犠牲者(3025人)の追悼集会で読み上げられ、「9・11テロで亡くなった若い消防士が生前書き残した詩」として、世界に広まった詩である。

 実はアメリカのノーマ・コーネット・マレック(2004年64歳で死去)という詩人が、溺れたほかの子どもを助けようとして自分も溺れて亡くなった10歳の息子を悼んで1989年に作った詩で、9・11テロとは関係はない。だが、9・11テロ後、この詩は次第に世界で読み継がれるようになる。混沌とした時代。1日を精一杯生きることを訴えるノーマの詩に、共感を覚える人は多いはずだ。

 

 あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら

 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて

 神様にその魂を守ってくださるように 祈っただろう

 

 あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら

 わたしは あなたを抱きしめて キスをして

 そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

 

 あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら

 わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう

 

 あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど

 最後だとわかっていたら

 一言だけでもいい…「あなたを愛してる」と

 わたしは 伝えただろう

 

 たしかにいつも明日はやってくる

 でももしそれがわたしの勘違いで 今日で全てが終わるのだとしたら、

 わたしは 今日 どんなにあなたを愛しているか伝えたい

 

 そして わたしたちは 忘れないようにしたい

 

 若い人にも 年老いた人にも

 明日は誰にも約束されていないのだということを

 愛する人を抱きしめられるのは

 今日が最後になるかもしれないことを

 

 明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず

 もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから

 

 微笑みや 抱擁や キスをするための 

 ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと

 忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを

 どうして してあげられなかったのかと

 

 だから 今日

 あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう

 そして その人を愛していること

 いつでも

 いつまでも 大切な存在だということを

 そっと伝えよう

 

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を

 伝える時を持とう 

 そうすれ もし明日が来ないとしても

 あなたは今日を後悔しないだろうから

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 明日が来るのは、当たり前ではない。

 3月11日を、すべての人が大切な人を想う日に。(岩手日報が付け加えたメッセージ)