小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1545 市民が支える小さな山荘 愛の鐘響く新庄・杢蔵山

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 作家の深田久弥(1903~1971)は、長い年月をかけて日本の名峰、百座を登頂した。その実体験を基に名作『日本百名山』を書いた。その後記(新潮文庫)で「日本人ほど山を崇び山に親しんだ国民は、世界に類がない。国を肇めた昔から山に縁があり、どの芸術分野にも山を取扱わなかったものはない。近年殊のほか登山が盛んになって、登山ブームなどといわれるが、それはただ一時におこった流行ではない。日本人の心の底にはいつも山があったのである」と書き、日本人が山と縁が深い国民であることを強調している。  

 私は現在、都市部に住んでいて、山にはほとんど縁がない生活を送っている。だが、深田が言うように、いつも山に対する憧憬を抱いている。昨今は、雪を抱いた遠い富士を見るのが楽しみになっている。  

 前置き長くなった。山形に住む知人から地元の山に関するいい話を盛り込んだ便りが届いた。山形県新庄市民に愛される杢蔵山(もくぞうさん)に関する話である。この山は標高1026メートルだから、山形では特に目立つ山ではない。

 だが、新庄に近く登りやすいため、新庄市民に親しまれている山なのだ。山荘近くには鉄柱に吊るされた「愛の鐘」があり、登山者はこの鐘を鳴らし自分だけでなく家族や友人の健康と幸福を祈るのだ。眺望も素晴らしく、鳥海山(2236メートル)・月山(1984メートル)・葉山(1462メートル)を臨むことができるという。  登山者のために途中の前杢蔵に「杢蔵山荘」がある。知人も登山の際は何度も世話になった。

 だれでも利用できるようにと、地元の人たちが維持管理してくれていて、ロフト付きの小さな山荘(33平米)はいつもきれいになっている。布団、水、薪ストーブ、水、エコトイレが常備され、時には誰かが置いて行った食料やビールさえもある。  新庄に隣接する町に住む知人には、杢蔵山は愛着ある地元の山といっていいだろう。

 「冬は薪などを燃やせば暖かな避難場所になるでしょう。居心地がいい山荘なので利用したあとはみんなが必ずきれにして『ありがとう』と感謝していくに違いありません。ただ暖かいだけでなく心の奥まで温かくなる癒し尽くしの山荘」というのが知人の思いである。  

 山荘は新庄市の「自然に親しむ会」というボランティア団体(延べ1351人が労力奉仕)が2年の歳月をかけて昭和41(1966)年9月に建立した。薪の運搬、天日による布団の乾燥、山荘の清掃といった維持管理も無償で行っているそうだ。知人はこうした崇高な行為に感謝しながら、最近も冬の杢蔵登山を楽しみ、愛の鐘を鳴らして下山したという。  

 英国の女性旅行作家、イザベラ・バード(1831~1904)は、明治11(1878)年に日本各地を旅し、『日本紀行』という旅行記をまとめた。この旅で山形を訪れたバードは温泉の町、赤湯(南陽市)について「申し分のないエデンの園で『鋤でなく画筆で耕されて』おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけてくるような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディア桃源郷)です」と激賞した。  

 このあと上山、山形、尾花沢を経由(舟形も通過しただろう)して新庄に入り、新庄ついて「みすぼらしい町」と2回書いたうえで「米、絹、麻が大々的に取り引きされているので、見かけほど貧しい町ではないはずです」とも記している。新庄を出たバード一行は金山に向かう途中「険しい尾根を越え、たいへん美しく変わった盆地に出た」という。

「そこはピラミット形の山々が半円形に連なり、しかもその山々が頂上までピラミット形の杉の木立に覆われているのでいっそう美しさが際立っているのです。見たところ、この杉林で北に行く道はすべてふさがれているようです。麓にはロマンチックな場所に金山の町があります」(講談社学術文庫より)  

 バードが目にした山は杢蔵の風景だったのだろうか。

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写真 1、杢蔵山荘の脇にある愛の鐘 2、山頂までの途中にある杢蔵山荘  3、山荘から見た新庄市内(いずれも板垣光昭氏撮影) 1372 イザベラ・バードが見たアジサイ 『日本奥地紀行』より 1463 旅で感じるもの ミャンマーはアジアの楽園になれるのか