小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1538 日米和解から取り残された沖縄 首里城に思う

画像

 安倍首相が真珠湾を訪問した。ことし6月にはオバマ大統領が広島を訪れ、平和公園で犠牲者に花束を捧げた。これによって両国の和解の価値を世界に発信するのだという。だが、何かがおかしい。米軍基地に苦しむ沖縄が置き去りにされたままではないか。  沖縄に関して、最近一冊の本を読んだ。与那原恵著『首里城への坂道』(中公文庫)である。沖縄の紅型・藍型など、型絵染の研究と伝承に力を尽くし、「型絵染」保持者として重要無形文化財人間国宝)になった鎌倉芳太郎を描いた長い評伝だ。  

 沖縄を象徴する建築物として知られる首里城正殿の復元に、鎌倉が重要な役割を果たしていたことをこの本で知った。首里城は太平洋戦争末期、沖縄戦によって廃墟となった。現在の建物は本土復帰後の1986年から92年にかけて復元されたものだ。その復元作業は生易しいものではなかった。米軍の攻撃によって首里城に関する古文書が焼失してしまったためである。復元を可能にしたのは、教師として東京から沖縄に赴任した鎌倉が沖縄の文化に強い関心を持ち、集めた史料がのちに役立つのである。  

 鎌倉は1983年にこの世を去っているが、86年に創設された沖縄県立芸術大学に、鎌倉が集めた「鎌倉資料」が寄贈され、その中から首里城の工事設計図と使用した材料の詳細を記した工事仕様書ともいえる「寸法記」(正式名称は長いため、略)が見つかったのである。原本か原本に近いものと鎌倉自身が戦前(昭和2年)に書き写したもので、与那原は「おどろくべき第一級の史料だった」と、書いている。  

 88年には、さらにもう一つの重要文書が、琉球王朝の系統である尚家(東京)から提供された。1842年~46年の琉球王国最後大規模修復工事の記録であり、これが鎌倉文書とともに復元工事に大きく寄与する。2000年には、「首里城跡」は「今帰仁城跡」「勝連城跡」などを含む9つの遺跡群とともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。しかし、復元された首里城正殿や城壁は世界遺産ではないのである。  

 首里城復元に関しては、友人で沖縄在住の馬渕和香さんが、朝日新聞デジタルで連載した「沖縄建築パラダイス」で詳しく紹介している。その結びで馬渕さんは「膨大な資料からパズルのピースを拾い出し、組み上げ、よみがえらせた朱色の城。沖縄の青空に美しく映えるその鮮やかな朱(あか)は、復元に全身全霊を傾けた人々の情熱を語る色でもある」と書いている。  朱色の城は蘇った。しかし沖縄の、米国の植民地に近い状況は依然変わらない。日米の和解に沖縄は取り残されたままなのだ。  

失われた城をもとめて「首里城復元」  

1101 沖縄の樹木たち 南方熊楠が愛したセンダン

1252 沖縄の建築物の魅力を追う 「小さな宝石のような風景」を連載  

1373 みるく世がやゆら(今は平和でしょうか) 沖縄慰霊の日に思う  

1428 「人生最高の日」は 沖縄の得難い体験の共有