小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1535 真珠湾攻撃幻の第一報  配信されなかったAPの速報

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 旧日本海軍真珠湾(ハワイ・ホノルル)の奇襲攻撃に踏み切ったのは1941(昭和16)年12月8日未明(日本時間)で、時差が19時間あるから現地時間は7日(日曜日)朝のことだった。米国ホノルル海軍基地から米海軍省に届いた電報は「Air Raid Pearl Harbor This Is No Drill !!!(真珠湾空襲、演習にあらず)」という内容だった。米国の代表的通信社APの現地記者も当然、速報を流したはずだ。だが、その速報は流されることはなく、幻の第一報になったことがAPの記録に載っている。

「ブレーキングニュース AP通信社報道の歴史」は、AP通信のニュース活動を振り返った記録集で、日本軍による真珠湾攻撃当時の動きについても当然頁を割いている。それによると、ホノルル支局長のユージン・バーンズ記者は日曜日の朝、市内を見渡すことができる自宅ベランダで朝食を取っていた時、飛行機のエンジン音を聞いた。南西方向に飛んでいく飛行機を見てバーンズ記者は驚く。飛行機は日の丸をつけ、爆弾と細身の魚雷を下部に装着しているのが見えたからだ。間もなく爆発音が街中に響き、真珠湾の方から噴煙が立ち上がった。

 彼は急いで電話に飛びつき交換手にサンフランシスコ支局の番号を告げた。電話はすぐに繋がり、バーンズ記者は「日の丸の国章をつけた少なくとも5機の飛行機がホノルル上空を飛び、爆弾を落とした」と至急報を口述した。さらに、続きを口述しようとすると、電話は切れてしまった。米国当局がすべての緊急用通信手段を確保するため商業用通信回線を遮断したためである。そして、本来なら至急報はサンフランシスコからカンザスシティー、ニューヨークへと伝達され、米国内のAPとの契約報道機関に配信されるはずだった。

 だが、その至急報は配信されることはなかった。バーンズ記者の速報が「幻の第一報」になってしまった理由は現在でも謎のままで、何があったかを示す記録も残っていないと、この記録には記されている。  

 米国の報道機関のホワイトハウス担当記者が大統領報道官から「日本軍が真珠湾を空襲した」というルーズベルト大統領の声明を聞くのは、バーンズが至急報を送ってから1時間後(ホノルルとの時差は5時間で、ワシントン時間午後2時20分)のことである。ホワイトハウスとAP、UP、INSという3つの通信社の電話が同時に接続されており、報道官からの発表を聞いたAPの第一報は「フラッシュ(特に重大ニュースの速報のこと)。日本軍真珠湾を攻撃、ホワイトハウス発表」だった。    

 一方、日本国民が真珠湾攻撃を知ったのは、攻撃開始からかなりの時間を経た8日(月曜日)午前7時のことである。大本営(当時の日本軍の最高統帥機関)はNHKのラジオ放送を通じて「臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍ハ今八日未明、西太平洋ニ於ヒテ、アメリカ、イギリス軍ト戦闘状態ニ入レリ」と発表した。発表時間は午前6時だが、実際の放送はその1時間後の午前7時だった。  

 米国政府への宣戦布告の通告は、真珠湾攻撃が始まってから1時間後となったため、だまし討ちや謀計といわれた。ワシントン大使館の怠慢から、宣戦布告通告の暗号文解読作業が遅れたことが背景にあるが、ルーズベルトは暗号の解読から事前に日本の攻撃開始を承知のうえで、戦略上だまし討ちにされたと言い続け当日は「12月7日は汚辱(恥辱)の中に生きる日です。(中略)日本政府は、謀計によりアメリカをだました」と主張したのである。

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