小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1530 M君の急逝 セネカの言葉で考える人生の長短

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  中学時代の同級生だったM君が急逝した。ことし7月一緒に旅行をしたばかりで、訃報に耳を疑った。故郷・福島での会合に出て、川崎の自宅に戻った直後のことだったという。ローマ帝国時代の政治家でストア学派の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカは「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである」(道徳論集『人生の短さについて他2篇より』と述べている。M君の急逝を聞いて、人生について考えさせられた。

 セネカは、人生についてこんなふうに語っている。 《私たちは短い時間を持っているのではなく、実は多くを浪費している。人生は十分に長く、その時間が有効に費やされるなら、最も偉大なことも完成できるほど豊富に与えられている。》(セネカは皇帝ネロに仕え、のちに謀反の疑いを受け自殺した。道義を説き、実践哲学で知られる)  

 人生の長短とは、その人が生きた寿命ではなく、いかにいい人生を生きたかということなのだろうか。M君は、頭がよく一目置く存在だった。だが、中学を卒業してから長い間、会うこともなかった。再会したのは郷里で開かれた同級会だった。M君は短髪で熟練の腕を持つ職人のような風貌に変わっていた。まさに、職人の親方が目の前にいた。こんな人の下で働く職人は、幸せに違いないと思った。そんな雰囲気をM君は持っていた。  

 7月の旅行の帰り、バスの中で隣合わせに座ったM君と私は飼い犬の思い出を語り合った。M君は私と同様、犬のゴールデンリトリーバーを飼っていた。しかし、彼のゴールデンは若くして死んでしまい、現在は別の犬を飼っている。散歩がいい運動になるということを彼は訥々と話した。  その合間に、つらい話も聞いた。独身だった弟さんが定年後のために福島県白河市郊外に家を建てたのだが、定年目前に急死してしまったという。その家を守るため、彼は川崎と福島を往復しているというのである。あの旅から4カ月。彼は弟のあとを追うように、この世を去ってしまった。  

 セネカの言葉に当てはめれば、M君は「いい人生を送ったのではないか」と、私は思う。M君はどちらかといえば、寡黙な人だった。だが、彼がそばにいると、なぜか心がやすまる雰囲気があった。存在感の確かさといえようか。寒い朝が続いている。それでも6時過ぎに散歩に出る。いつものコースの調整池周辺には、霧が立ち込めている。この霧のように、これから先の人生の見通しは分からない。そんな時、どっしりとしたM君の姿を思い浮かべれば、不安はない。