小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1522 中国の旅(9)完 神秘の街での雑感

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 今回の旅で最初に行ったのは、旅順だった。正確には大連市旅順口区という。日露戦争の舞台でもあり、その後多くの日本人が住んだ。八木さんも生まれたこの街は近年まで対外開放されることなく、神秘の地ともいわれたそうだ。

 「官民の手によって、今日まで丁寧に保存されてきた欧米風や日本風の建物には様々な史実があった。中でも興味深かったのはなんと清の時代の官僚から帝政ロシアの司令官、日本の将軍から再び中国人民の手に戻るまで、まったく文化の異なる人たちが同じ屋根の下でそれぞれの人生を送っていたという事実だった」

  これは八木さんの友人、呂月華さんが出版した『神秘的な旅順』という写真集の中で書いている前書きの、旅順の歴史的な建物について触れた部分だ。呂さんが指摘するように、この街の歴史は複雑である。新中国誕生後は長い間、外国人の立ち入りは禁止され、全面的に対外開放になったのは2009年だった。

 「全く変わっていて、昔の街ではない」。旅順の旧市街で生まれた八木さんの感想である。日露戦争に勝って日本が租借地としていた戦前、この街は日本橋という橋をはさんで新市街と旧市街に分かれ、乃木町、敦賀町、青葉町、山手町、鮫島町、栄町(以上旧市街)、吾妻町、月見町、桃園町、日進町(以上新市街)という名前の町があった。もちろん、現在はそうした地名はない。

  中国の経済の発展とともに、中国の都市は大きく変わった。旅順もその例外ではなかった。郊外には、大規模学園都市が造成され、大連外国語大学をはじめとして多くの大学が移転してきた。だが、旅順の歴史的建造物は保存されているから、旅順は歴史と新しさを合わせ持った街といえる。203高地や乃木大将とロシア軍ステッセル将軍の会見で知られる水師営の会見所記念館など、歴史を証明するものも少なくない。

  たまたまなのかどうか、2つの場所に日本人は私たちだけしかいなかった。八木さんのようにこの街で生まれた人たちは高齢になっていて、故郷再訪の旅も難しくなっているだろう。日中関係が良くない時代が続いており、観光客として訪れる若い世代は皆無に近いこともあって、日本人の姿は見かけないのかもしれない。

  だが、この街には八木さんの親類が住んでいて、来訪を歓迎してくれる。どんなに街の姿が変わっても、八木さんにとってこの街は故郷なのである。

  私は故郷を訪れた八木さんの顔を見ながら、室生犀星の詩を思い浮かべた

  ふるさとは遠きにありて思ふもの

 そして悲しくうたふもの

 よしや

 うらぶれて 異土の乞食となるとても

 帰るところにあるまじや

 ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

 そのこころもて

 遠きみやこにかへらばや

 遠きみやこにかへらばや

  (室生犀星・小景異情(その2)より)

 

(終わり、第1回に戻る)