小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1505 被爆者たちの死の舞踏 71年前の人類の悲劇の体験

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 きょう6日は、広島原爆の日だった。河野治彦『灯篭流し 陽の目を見なかった父の原爆小説』(文芸社)を読み返した。原爆投下から終戦までの1週間の広島の街の実情を記した手記である。痛みに耐えるために地団駄を踏む格好をしながら、経を読むように一つの場所を回り続ける被爆者のことが描かれている。小説と銘打っているが、これは71年前の真実だ。

  筆者は河野氏の父親だが、出版の夢を果たせないままに亡くなり、息子の河野治彦氏が2006年3月に出版した。河野氏の父親は中国東北部(旧満州)の大連で生まれ、祖父の故郷である広島で青春時代を過ごしたあと東大に進み、学生結婚し、戦争末期に妻の実家(広島市郊外の廿日市市)に疎開した。

  原爆投下を裏山で目撃した父親は、翌日、広島に入り、旧制広島高等学校の友人や恩師、親類を探し回り、原爆によって破壊された広島の街と傷つき命を失った人々の姿を目撃する。中には

  いたいよ、いたいよ、いたいいよ

 いたいよ、いたいよ、いたいいよ

 それいたい、いたいよ、いたいたい

  と叫びながら、くるくる回る被爆者もいた。広島電鉄己斐駅(現在の西広島)の光景だ。駅の300坪ばかりの三和土には火傷で皮のむけた人たちが寄せ集まり、苦しみの呻き声を出している。顔が河豚のように腫れ上がり、つぶれた水泡から出る桃色がかった膿が顎にたれている40恰好の男が父親に突進してくる。そして、男は地団太を踏み始める。それは経を読むように聞こえ、何人かがその運動に加わった。

 これらの被爆者の姿を手記は以下のように書いている。

 《それは人間の苦悩を払い除け、慰楽と安寧を垂れ給えと願う集団的祈りのように見えた。しかし、その声が高まり、交響楽の協和が複雑になるにつれて、人類が等しく受けている現在の報いが、残酷な肉の腐敗と魂の放浪に結実し、その最も素朴な死の舞踏の形によるべを見出し、今を盛りと演ぜられ始めたように思われた。》

  父親の手記を本にした息子の河野氏は、あとがきで被爆者のこの姿についてあらためて触れている。父親が形見として残したレコードの中にサン=サース(フランスの作曲家)の「死の舞踏」が混じっていて、なぜ気味の悪いレコードを父親が聴いていたか不思議に思っていた。だが、父親が書いた手記を読んでその理由を知ったというのである。

 《何と、父は被爆者が、輪になって展開する『死の舞踏』を目撃していたのだ。(中略)火傷のために水泡ができ河豚のように腫れ上がった顔、ダラリと垂れ下がった皮膚を腕のところに下げ、ボロボロになった異様な人間が『慰安と安寧を垂れ給え』と願う悲痛な踊りであった。父は、善良な市民があの光線と熱と焔によって生きたままボロボロに焼かれ、動物としてのたうち回る姿に人類の苦悩の極点を見たのだ。サン=サースの『死の舞踏』を聴きながら、昭和20年8月6日に広島市に投下された原爆の下での人類の悲劇の体験を思い起こしていたのであろう。》

  米国のオバマ大統領はことし5月、広島を訪問し、平和記念公園核兵器の廃絶を訴える17分の演説をした。その中には以下のようなくだりもある。

 《いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。(毎日新聞)》

  この本もまた、見逃してはならない広島の記憶なのである。「将来日本独自の核兵器保有を検討すべきだ」と語った稲田防衛相にこの本を読ませたいと思う。道義的想像力がない政治家が少なくないことに心が寒くなる。

  付記 私はサン=サースの曲は、交響曲3番「オルガン付き」が好きで、時々CDで聴いている。